夏と悲運

とど、俺としたことが、笑い出さずにゃいられない。

思えば小学校の頃からだ。
例えば夏休みも近ずこうという暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑い出さずにゃいられなかった。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑(おか)しいというのではない、
起立して、先生の後から歌う生徒等が、可笑しいというのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑うべきものが存在(ある)とは思ってもいなかった。
それなのに、とど、笑い出さずにゃいられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思いをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしようもなかった。
別に邪魔になる程に、大声で笑ったわけでもなかったし、
然(しか)し先生がカンカンになっていることも事実だったし、
先生自身何をそんなに怒るのか知っていぬことも事実だったし、
俺としたって意地やふざけで笑ったわけではなかったのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思うのだった。

大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのこうのと云うのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じているなぞというのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑い出さずにゃいられない。

どうしてそれがそうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやというほど味わっている。

(一九三七・七)


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ひとくちメモ

「夏と悲運」は
「千葉療養日誌」以後の
詩人自らの死の3か月前に作られました。
文也の死を含めての
詩人が辿ってきた境涯の悲運について歌われますが
冷静を保とうとしている口ぶりに
かえって胸が塞(ふさ)がる思いがします。

繰り返し読んでると
詩人自ら「悲しみ呆け」と言った
二重三重の悲しみの中に
入り込むような感覚になります。

「草稿詩篇」(1937年)6篇のうち、
「夏と悲運」だけは、
 (一九三七・七)と
制作日が記されています。
中也が亡くなるのは
10月22日ですから、
死の約4か月前の制作です。

小学校の音楽の授業で
オルガンを弾く先生が
アアアアアアアと音程練習をさせる光景は、
だれでも経験することでしょうが、
あの、なんとも言えない滑稽さに
少年は吹き出してしまって、
廊下に立たされた。

誰が見たって
可笑しいのに
なんでぼくが罰をうけなあきゃならないんだよ

遠い昔の
悲運を
詩人は
この時になって
思い出し……

30年生きてきたけれど
思えば、悲運ばかりが続いた……
と、あれこれ思い出す中に
文也の死がないわけがありません。

「少女と雨」の
最終行、

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

「秋の夜に、湯に浸り」の
冒頭行、

秋の夜に、独りで湯に這入(はい)ることは、
淋しいぢやないか。

このあたりにも
文也の死を
心の芯で受け止めている
詩人があります。

「秋の夜に、湯に浸り」と「四行詩」との間には
どれほどの時間が流れたことでしょうか。

おまえはもう
静かな部屋に
帰るがよい。

おまへはもう
郊外の道を
辿(たど)るがよい。

心の呟(つぶや)きを、
ゆつくりと聴くがよい。

あたかも、
自らの死に
したがうかのようでありながら、

自分の生存への
エールのような
うたを
きざみ……

その何日か後に
亡くなりました。


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