(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)

嘗(かつ)てはランプを、とぼしていたものなんです。
今もう電燈(でんき)の、ない所は殆(ほとん)どない。
電燈もないような、しずかな村に、
旅をしたいと、僕は思うけれど、
却々(なかなか)それも、六ヶ敷(むつかし)いことなんです。

吁(ああ)、科学……
こいつが俺には、どうも気に食わぬ。
ひどく愚鈍な奴等までもが、
科学ときけばにっこりするが、
奴等にや精神(こころ)の、何事も分らぬから、
科学とさえ聞きゃ、にっこりするのだ。

汽車が速いのはよろしい、許す!
汽船が速いのはよろしい、許す!
飛行機が速いのはよろしい、許す!
電信、電話、許す!
其(そ)の他はもう、我慢がならぬ。
知識はすべて、悪魔であるぞ。
やんがて貴様等にも、そのことが分る。

エエイッ、うるさいではないか電車自働車と、
ガタガタガタガタ、朝から晩まで。
いっそ音のせぬのを発明せい、
音はどうも、やりきれぬぞ。

エエイッ、音のないのを発明せい、
音のするのは、みな叩き潰(つぶ)せい!


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ひとくちメモ

「草稿詩篇」(1937年)には
中也最晩年の作品5篇が
まとめられています。

「春と恋人」
「少女と雨」
「夏と悲運」
「(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)」
「秋の夜に、湯に浸り」

――の5篇ですが
いずれも
中原中也の「最終詩」です。

(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)は
昭和12年(1937年)8月―9月の制作と推定されていますが
この頃は
「在りし日の歌」の原稿の整理のまっ最中でした。

「在りし日の歌」の「後記」が書かれたのが
9月20日頃で
「在りし日の歌」の清書原稿が小林秀雄に手渡されたのが
9月26日(推定)とされていますから
(嘗てはラムプを、とぼしてゐたものなんです)が書かれたのは
「後記」の書かれる前のことと推測できます。

さて、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
さらば東京! おゝわが青春!

――と「後記」末尾に書き付ける
その少し前に

今もう電燈(でんき)の、ない所は殆どない。
電燈もないやうな、しづかな村に、
旅をしたいと、僕は思ふけれど、

――と歌っていたのです。

詩人の住んでいた時代の鎌倉は
現代に比べれば
ネオンサインのけばけばしさもなく
まして東京よりはましだったはずであるにもかかわらず

エエイッ、うるさいではないか電車自働車と、
ガタガタガタガタ、朝から晩まで。

――と歌わねばならなかったのです。

静寂は
鎌倉の町には存在していたはずであるのに
詩人の心は
それを欲していました。


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