詩の入り口について

そもそも「詩集」は、詩人が選び、配列を考えて、あるひとまとまりの表現を試みたものですから、はじめからおわりまでを並べられた順序に従って読んでいけばよいのですが、そうとばかりもいっていられません。

読者は、神様のようなもので、詩は、きっと、その読者、神様のような読者のために作られるものですから、読者はどのように詩(集)を読んだって自由であるということになっています。

こういうことを暗黙の前提としているから、たとえば、詩集には、制作年月日が明記されませんし、制作年月日順に作品が配列されるだけでもありませんし、余計な説明はなく、読者にはただ作品が差し出されるだけです。

作品だけを読んでくれ、詩だけを読んでください、と詩人は考えて、何ら詩を読むための手がかりを明らかにしないで詩集を編むことになっているようです。

少なくとも、文庫本化される前の詩集、つまり、その詩集が世に生まれた時には、たまに、あいさつのようなものがあるほか、詩以外に詩を読む手がかりは何もありません。

詩集「山羊の歌」も、詩集「在りし日の歌」も例外ではありませんでした。「在りし日の歌」の「後記」は、あいさつのようなものでした。

このような事情もあってか、詩人の決めた順序にしたがって詩集を読むなどという読者は、読者のうちでも律儀な優等生ですが、優等生ばかりが読者ではないのが当たり前ですから優等生でもなんでもない多様な人々が 詩を読むことができます。

こうして、素手で詩と向き合う。徒手空拳で詩と相対する。なんの手がかりもなく詩を読む……。

読者はこのような場所に立たされます。詩の入り口にいます。

この読者が、あるとき「サーカス」を読み 、ゆあーん ゆよーんというオノマトペに惹かれて、入り口から一歩踏み込みます。

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