詩的履歴書

 「詩的履歴書」は、1936年(昭和11年)に書かれた「我が詩観」に添えられた詩人自身による創作歴です。同年6月の「ランボウ詩抄」刊行後から長男文也の死(同年11月)の間に書かれました。長谷川泰子との生涯にわたる「恋愛」と、溺愛した長男文也の死という、詩人にとって最大の事件が書かれていませんが、「作品が創られた歴史」のポイントが選ばれていて、詩人を知る第一級資料の一つです。

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詩的履歴書──大正四年の初め頃だったか終頃であったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌ったのが抑々の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所、「今一度天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。
 

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
 

大正九年、詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われていることなんだなと安心す。
 

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。
 

大正十二年春、文学にりて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
 

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。
 

同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になったのは、最初の反省がなかったのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかったにしろ、政治的動物になるにはなっちまったんだ。私とは、つまり、そのなるにはなっちまったことを、決してめはしない悲嘆者なんだ。」というのがその書き出しである。
 

大正十四年、小林に紹介さる。
 

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
 

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。
 

昭和四年。同人雑誌「白痴群」を出す。
 

昭和五年、六号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
 

昭和七年、「四季」第二夏号に詩三篇を掲載。
 

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
 

同年十二月、結婚。
 

昭和九年四月、「紀元」脱退。
 

昭和九年十二月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
 

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。
 

同年十月、男児を得。
 

同年十二月、「山羊の歌」刊行。
 

昭和十一年六月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。
 

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。
 

大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。
 

(「新編中原中也全集・第4巻」より)

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