中原中也の27歳

「お道化うた」が作られた
昭和9年(1934年)は、中也27歳。
昔の人だから、
現代の人の精神年齢より
かなり熟しているはずで
油の乗り切った歳、と
いえる年齢ではないでしょうか。

前年に
遠縁にあたる上野孝子と結婚していますし、
この年の10月には、
第一子である長男文也が生まれています。
第一詩集「山羊の歌」も、
紆余曲折の末、出版されました。

昭和8、9年ごろは
中原中也という詩人の
新しい生活がはじまった年、と
考えられそうですので
少しこだわってみたいと思います。

「中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)
の年譜を見てみます。
*同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

1933年(昭和8) 26歳
1月、高森の伯母を通じて坂本睦子に結婚を申し込む。
3月、東京外国語学校専修科修了。
4月、「山羊の歌」を芝書店に持ち込むが断られる。
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮れ」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
同月、読売新聞の懸賞小唄「東京祭」に応募したが落選。
9月頃、江川書房から「山羊の歌」を刊行する予定だったが実現をみなかった。
同月、「紀元」創刊号に「凄じき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を発表。
12月、上野孝子と結婚。四谷のアパートに新居を構える。同アパートには青山二郎が住んでいた。青山の部屋には小林秀雄・河上徹太郎ら文学仲間が集まり、「青山学院」と称された。
同月、三笠書房から「ランボオ詩集《学校時代の詩》」を刊行。
*高森は、前年(昭和7年)に知り合った、年少の詩人・高森文夫のこと。坂本睦子は、大岡昇平の「花影」や、久世光彦の「女神」のモデルになった伝説的なホステス。直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎ら、文学者と数多の浮名を流し、最後に自殺した。(編者)

1934年(昭和9) 27歳
この年も「紀元」「半仙戯」への詩の発表続く。「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
2月、「ピチペの哲学」、6月「臨終」など。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボオ全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書翰 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日、長男文也誕生。
同月、「山羊の歌」刊行。この頃、草野心平ら「歴程」同人の催した朗読会で「サーカス」を朗読。同時期、檀一雄の紹介で太宰治を知る。

以上を見ただけで、
一種、「売れっ子」ともいえそうな
活動ぶりですし、
公私ともに充実。
詩人は、未来に、多少なりの展望を
見い出していたことをうかがわせます。

なお、「お道化うた」の
朗読を聴いたという吉田秀和と、中也は、
1930年(昭和5年)に相知っています。
中也は、吉田秀和に
フランス語を教える立場の
アルバイトをしていました。

東京外国語学校専修科を修了したり、
翻訳を手がけたりと、
フランス語の習得も
伊達(だて)ではありません。

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