魂の動乱時代・中也25歳

一方詩人の魂には漸く困乱の徴が見え始めた。

「中原中也の手紙」の「手紙四十九 九月二十三日(はがき)(大森 北千束)」の解説で、著者・安原喜弘は、昭和7年(1932)秋の詩人・中原中也25歳の状態を、こう記して、次のように続けています。

この時まで辛くも保たれた魂の平衡運動は遂にこの疲労した肉体のよく支え得るところでなく、夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失って混乱に陥り、夢は現実に、具体は概念によって絶えず脅迫せられた。人はこの頃の状態を神経衰弱と呼ぶかもしれない。然しながら私は詩人のこの時代の消息については今は単に詩人の動乱時代と呼ぶに止めたいと思う。

詩人27、28、29歳の上昇機運の前に
「魂の動乱時代」とか「魂の惑乱時代」があった、と
中也の晩年、最も近くに存在し続けた
僚友・安原喜弘が書いているのです。

安原喜弘は、
「白痴群」以来の中也の友人で
詩集「山羊の歌」中の「羊の歌」が
献呈されている、当の人です。

1932年、25歳の年譜を
中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)で
見ておきます。
* 同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

1932年(昭和7)
4月 「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」の予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、馬込町北千束の高森文夫の伯母の家に移転。高森と同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)没、75歳。母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
秋以降、高森の従妹に結婚を申し込む。ノイローゼ状態となり、高森の伯母が心配して
年末フクに手紙を出した。

「中原中也の手紙」に付された「中原中也略年譜」も
ここで見ておきましょう。

*青土社版2000年発行の「中原中也の手紙」に収められた、この略年譜は、だれがいつ編集したものか明らかでありませんが、ここでは安原喜弘が作ったものと判断します。佐々木幹郎編の中原中也詩集『在りし日の歌』」(角川文庫クラシックス)の年譜は、これより新しい制作のようです。

1932年(昭和7年) 25歳
3月 上旬、京都を経て帰省。下旬、安原、山口を訪れ、5日間滞在。秋吉鍾乳洞(秋吉洞)、長門峡などを案内する。
5月 これまでの詩作をまとめて第1詩集「山羊の歌」の編集に着手。
6月 「山羊の歌」の編集を終り、7月出版の予定にて一口4円の予約募集をするも、応ずるもの十数名にすぎず。
7月 「山羊の歌」予約の訂正通知を出す。応募〆切りを7月20日とし、発行を9月に延期することを告げ、重ねて予約を勧誘する。しかし結果は思わしからず、結局全部自費で出版することを決意し、ひとまず帰省。
9月 郷里よりあるていどの資金を用意して上京、「山羊の歌」を印刷する。しかし資金不足のため装丁、出版までにいたらず、本紙、紙型を引きとって安原宅に預ける。
この頃より長年にわたる疲労と苦難から神経衰弱の徴候を現わし、次第に激しくなる。年末から年初にかけて絶頂に達し、ほとんどの友人たちと断絶する。

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