中原中也30歳の死

中原中也の27歳、1934年は
長男文也の誕生、
「山羊の歌」の出版という
公私ともに充実した年で
ありました。

上昇気流に乗って、そのまま、
大空に翔ぶ鷹のような
力強い人生が期待されますが……

しかし
まったく不運にも
この充実ぶりは
1936年11月の文也の死によって
消え去り
その翌1937年10月には、
また不運にも
結核性脳膜炎を発症し、
急逝してしまいます。

あまりにもあっけなく
あまりにもはかない……
30歳の命でした。

29歳から死までの年譜を
ここで見ておきます。
「中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)
からの引用です。
*同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

1936年(昭和11) 29歳
「四季」「文学界」「改造」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
1月、「含羞」、6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、7月「曇天」など。
6月、山本文庫「ランボオ詩抄」刊行。
秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局入社の話があり面接を受ける。
11月10日、文也死す。
12月15日、次男愛雅(よしまさ)生まれる。神経衰弱が昂じる。

1937年(昭和12) 30歳
1月9日、千葉市の中村古峡療養所に入院。2月15日退院。
同27日、鎌倉の寿福寺境内に転居。同月「また来ん春……」、4月「冬の長門峡」、5月「春日狂想」を発表。
8月、草野心平がJOAKで「夏(血を吐くやうな)」を朗読。
9月、野田書房から「ランボオ詩集」を出版。
同月、関西日仏学院に入会を申し込む。
同月、「在りし日の歌」を編集、原稿を清書。小林秀雄に託す。
10月、結核性脳膜炎を発病。同6日鎌倉養成院に入院。
同22日永眠。戒名は放光院賢空文心居士。郷里山口市吉敷の経塚墓地にある「中原家累代之墓」に葬られる。

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