みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

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ひとくちメモ

章題を「みちこ」として
5作品が選ばれましたが
なぜ「みちこ」という章題なのか?

「少年時」後半部で
過去の「心の歴史」と化した恋は
長谷川泰子との離別の歌であったからか?

ふたたび
歌われるためには
「みちこ」でなければならなかったのでしょうか。

「みちこ」は
女性崇拝とか
女性賛美とかいうより
肉体賛美の詩。

胸(むね)
目(め)
額(ひたい)
項(くびすじ)
腕(かいな)
一つひとつを賛美しています。

肉体賛美は
中原中也の場合
当然、精神の賛美でありますが

胸を賛美して海
目を賛美して空
額を賛美して牡牛……と

女性を賛美するのに
自然になぞらえたのです。
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したのではありません。

すでに
失われてしまった恋であるか
遠い日の恋であるゆえにか
この賛美は完全です。
人間くささがなく
透明感があります。

現実での話、この女性は
長谷川泰子ではなく
他の女性が推論されていますが
(「痴人の愛」(谷崎潤一郎)のモデルになった葉山三千子であることを大岡昇平が証言しています)

女性がだれそれと特定されなくともOK
と言えるほどに
女性一般の美しさを
歌い上げていて見事です。

あなたの胸はまるで海のようだ
大きく打ち寄せ打ち上がる。
遥かな空、青い波に
涼しい風が吹いて
磯が白々と続いているかのようだ。

あなたの目は、あの空の
遠い果てをも映し
次々に並んでやって来る波の
とても速く移ろっていくのに似ている。

あなたの目は
見るともなしに
沖を行く舟をみている。

あなたの額の美しいこと!
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥して眠りに入る。

しどけない、あなたの首筋は虹のようで
力なく、赤ん坊のような腕をして
絃うたあわせはやきふし
いとうたあわせはやきふし 
イトウタアワセハヤキフシ 
糸・唄・合わせ・速き・節。

弦楽器の弦の糸と歌、とは、
音曲とか歌曲ほどの意味でしょうか。

歌曲の速いフレーズに乗って
あなたが踊ると

海原は涙に濡れて金色の夕日をたたえ
沖の瀬は、とても遠く、
向こうの方に静かに潤っている

空に、あなたの息が絶えようとする
その瞬間を
僕は見た。

みちこ
きれいだよ。


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