汚れっちまった悲しみに……

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

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ひとくちメモ

「汚れっちまった悲しみに……」の中で
「たとえば狐の皮裘」と
中原中也は
古風とも、モダンとも受け取れる
比喩を用いています。
皮裘は「かわごろも」と読みます。

中国では古来、
狐の皮毛で作った衣服を尊重し
高貴な女性が着用するものとされています。

詩句に沿って読むと
では
これはだれが着ていたものでしょうか。
「汚れっちまった悲しみ」の主体は
だれだったのでしょうか。

これを
長谷川泰子と読む解釈と
中原中也その人と読む解釈とが
錯綜しています。

「狐の皮裘」は
わかりやすく言えば
ミンクの毛皮とか
豹の毛皮とか、のような
女性が身に着ける衣裳……。

だから
「汚れっちまった悲しみ」の主語は
中原中也から去った女
長谷川泰子である
と読むのは自然ではあります。

けれど
「汚れっちまった」と
わざわざ促音便を用い(歴史的表記は「汚れつちまつた」です)
北原白秋に似せた調子で歌われたこの詩を
長谷川泰子の悲しみに限定するのも無理があります。

たとえ文法的に
泰子の悲しみを歌ったものだとしても
泰子の悲しみを通じて
泰子の悲しみにかぶせるように
中也自身の悲しみを歌っている。

世間はそのように受け止めてきたのでありましたし、

──詩人が「汚れっちまった悲しみ」と歌う時、それは彼
のあらゆる個人的な事情を離れて「汚れっちまった悲しみ」
一般として感じられるのである。

と、大岡昇平が読むように
錯綜を超えてこの詩を味わいたいものです。

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ひとくちメモ その2

──倦怠(けだい)の謎

「汚れつちまつた悲しみに……」は、繰り返し繰り返し読んでも最後のところで謎が残り、いったんはその謎を追求することを止めて、しばらく放っておくと、ふっと、あっ、これだ、なんて謎が解けた瞬間があるので、また、思い出して読み返し、そうして、もう一度、読んでみると、こんどは、ほかの謎が浮かんできて……

というわけで、ここで第3連第4行の「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」の謎に迫ってみます。

そもそも、初めてこの詩に触れ、この行にさしかかって、ケンタイではなくケダイなんだ、何故かな? と疑問を抱いたままそのままにしておきました。普通は「けんたい」と読むところを「けだい」と中原中也は読ませます。何故でしょう?

多分、詩人は、倦み、飽きる、とか、やる気が起きない、気だるい、怠惰な気分、とか、倦怠感やフランス語のアンニュイ(=倦怠)とか、一般に考えられるケンタイ=倦怠と区別したかったのではないでしょうか。

詩集「山羊の歌」を注意深く読んでみると、倦怠=けだいに通じる詩句が、詩人が詩人としてやっていける!
と自認した作品である「朝の歌」の中にすでに現れているのを発見できます。

第2連の

小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諌(いさ)めする なにものもなし。

です。

「朝の歌」と「汚れつちまつた悲しみに……」は作られた時期が違うし、歌われた状況も違うし、歌われている感情もまったく異なりますが、「倦んじてし」と「倦怠のうちに」とは、通じるものがあります。

中原中也の、自他ともに認める会心作「朝の歌」に、すでに、「汚れつちまつた悲しみに……」の「倦怠=けだい」に通じる感情が歌われていたのですが、詩集「山羊の歌」の「少年時」にある「夏」には、よりいっそう「倦怠=けだい」に近い感情が歌われます。

第1連冒頭行の、
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

同第3行の、
睡るがやうな悲しさに、

同第4行の、
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

第2連最終行の、
血を吐くやうなせつなさに。

最終連最終行の、
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

この詩では、倦怠の「倦」を、倦うさ、と読ませています。そして、この、倦うさに、たゆけさ、悲しさ、せつなさ…を並列し、これらに、ほとんど、同格の、ほとんど、同じ意味を込めているのです。

たゆけさ、せつなさ、悲しさ……は、倦うさの、他の表情に過ぎず、根は同じものなのです。この詩にはありませんが、むなしさもこの中に入っておかしくはないでしょう。

しかし、ここで気に留めておきたいのは、悲しさです。
倦怠=けだいは、あきらかに悲しみの系譜に属する感情である、という一事です。

「憔悴」は、詩集「山羊の歌」の最終の章である「羊の歌」に収められた3作品の一つです。詩集の結末にある「いのちの声」の一つ前に置かれ、「いのちの声」に優るとも劣らない絶唱の響きのある作品です。

その、第3節に、

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

と、あるのは、やはり、「倦怠=けだい」のメロディーとして、聴くべきものです。ここでは、「怠惰」とされていますが、まぎれもなく、これは、「倦怠=けだい」の同義語・同類語なのです。

昔から、自分の手に負えたものは怠惰だけだったかも知れない。と、いうときの「怠惰」は、怠け者、ボンクラというだけではなく、そこから、生まれてくるものがあることを感じさせる、詩作の源泉とでもいえるようなポジティブな意味が含まれていることを見逃してはなりません。

このように、「山羊の歌」という詩集の結末部で、「倦怠=けだい」は歌われて、中原中也の詩のコアを占めている「感情」であることが明らかなのですが、詩集の結末ばかりでなく、たとえば、詩集の冒頭の作品である「春の夕暮」にも、すでに、「倦怠=けだい」の調べが奏でられていることに気づかされて、驚かざるをえません。
「春の夕暮」の「倦怠=けだい」は未だ、「倦怠」と名づけられてはいませんが、その気分は、プンプン匂っていて、多くの人に感じられていることが容易に想像できます。

ダダイズムの詩を書いていた若き日の詩人は、すでに「倦怠の人」だった、ということができそうです。

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