心 象

   Ⅰ

松の木に風が吹き、
踏む砂利(じゃり)の音は寂しかった。
暖い風が私の額を洗い
思いははるかに、なつかしかった。

腰をおろすと、
浪(なみ)の音がひときわ聞えた。
星はなく
空は暗い綿(わた)だった。

とおりかかった小舟の中で
船頭(せんどう)がその女房に向って何かを云(い)った。
――その言葉は、聞きとれなかった。

浪の音がひときわきこえた。

   Ⅱ

亡(ほろ)びたる過去のすべてに
涙湧(わ)く。
城の塀乾きたり
風の吹く

草靡く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩(いこ)いなき
白き天使のみえ来ずや

あわれわれ死なんと欲(ほっ)す、
あわれわれ生きんと欲す
あわれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

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ひとくちメモ

「少年時」という章の
最終に配置され、作品も
夏の歌であり
空の歌です。

この夏は
もはや、秋に限りなく近い夏で
Ⅰは、海辺
Ⅱは、草原を舞台にしますが
どちらも特定の場所を指示するものではありません。

松の木に風、と聞いただけで
海岸沿いの松林を
幾つか思い浮かべることができるのは
日本に生まれ育ったからなのでしょうか。

その道はたいてい砂利道で
ザクザクザクザク歩くにつれて立つ音は
たいてい寂しさの漂うものでした。

暖かい春風が
ひゅーひゅーと詩人の顔を撫でつけ
去来する思いは
昔のことばかりで
懐かしいものでした。
見覚えのある風景を
中原中也は
喚起させる名人です。
こんな風景を見たことがある! と
読む人をただちに
詩世界の中に引き込みます。

松林を通り抜け
どこだか防波堤のような
人が腰掛けるのに格好な場所があり
その上にしばらくたたずみます。

すると
波の音だけがひときわ高く
星のない夜空は綿のようです。

おりしも通りかかった小船があり
船頭さんが
屋形の中の女房に
何かを喋っていたのだが
何を喋っていたのか聞き取れなかった。

闇の中にふと現れる
人の賑わいに
詩人は入っていけませんでした。

そして
波の音だけが高くまた聞こえてきた。
孤独……
詩人はしばらく
こうして波の音を聞いています。

どれほどの時間が過ぎて行ったのか
詩人はいつしか
深い悲しみの中にいます。 
もうここにない過去
現在につながらない過去
滅んでしまった過去のすべてを思うと
涙が溢れてくる。

城の塀は乾き切り
風が吹き渡る。

草は靡(なび)き
丘を越えて、野を渡り
休むことがない
純白の天使の姿も見えてこない。

ぼくは死にたかったのだ。
ぼくは生きたかったのだ。
滅び去った過去のすべてに向き合うと……

涙が溢れる
神のみそなわす空の向こうから
風が吹いてくる。

涙が溢れても
詩人の心は折れません。
風の吹くにまかせ
むしろ、ひょうひょうとした感じさえあります。
不思議です。

白き天使……は
泰子であっても、なくてもよい。

心の形
心象
ですから……


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