「在りし日の歌」について

「在りし日の歌」は、中原中也の自作自選の第2詩集で、昭和13年(1938年)4月に発行されました。詩人は、前年の昭和12年10月に急逝したために、この詩集を実際に手にすることはありませんでした。死ぬ直前に編集・清書の全てを終え、原稿を親しい友人である小林秀雄に託しました。それが死後半年ほどで本になったものですが、期せずして、詩人の『在りし日の歌』になった格好です。しかし、この詩集が遺書のつもりで書かれたものでないことをまずは確認しておかなければなりません。

第1詩集「山羊の歌」は、編集開始から数えて足かけ2年半にわたる難航の末の刊行でした。この難航の中で、突然、舵を切るようにして、詩人は遠縁の上野孝子と結婚します。昭和9年(1934年)10月には、長男文也が誕生、その2か月後の発行でした。「山羊の歌」の評判は上々で、職業詩人としての名声は徐々に高まり、雑誌や詩誌への寄稿、座談会への出席、酒席での談論と多忙な日々を送るようになった矢先の、昭和11年11月、2歳になったばかりの愛児・文也を亡くします。第2詩集「在りし日の歌」は、「亡き児文也の霊に捧ぐ」の献辞が付されてあるように、文也の追悼詩集なのです。そのうえに、詩人の死がかぶさったために、詩集「在りし日の歌」へのアプローチの道筋を複雑にしているのです。

愛児を亡くした衝撃で、詩人の精神はバランスを失いました。被害妄想やノイローゼが高じたために、昭和12年(1937)1月から2月にかけての約1か月、千葉県の中村古峡療養所へ入院します。退院直後に、文也の思い出の詰まった東京・市谷から鎌倉の寿福寺敷地内に転居し、近くに住む小林秀雄、大岡昇平、今日出海、島木健作ら旧知や新しい友人との交流を活発にします。この地で力を注いだのがアルチュール・ランボーの翻訳であり、「在りし日の歌」の出版でした。9月には「ランボオ詩集」を刊行、続けて「在りし日の歌」の編集のフィニッシュにかかり、清書原稿を同月中に小林秀雄に預けました。この時、詩人は1か月後に迫った自らの死を夢にも思っていません。

「在りし日の歌」の出版計画は、文也の死に先立つ、昭和11年(1936年)秋頃にはじめられたことが明らかになっています。はじめは「山羊の歌」以降の発表詩篇や「ノート少年時」「早大ノート」から50作品を選びましたが、文也の死、自身の千葉療養所への入退院、一家の鎌倉への引っ越しなどで身辺あわただしく、計画は中断します。しかし、詩人が鎌倉へ転居したのは、心機一転を図り、再生を期すためでした。鎌倉で再び、「在りし日の歌」の編集ははじめられ、この過程で文也追悼詩集の色合いが濃く打ち出されたために、当初の意図である「過ぎ去りし日」「生前」「幼かりし日」などとの、多様な「在りし日」が混在することになったのです。

こうして「在りし日の歌」は、「含羞」を冒頭に置く「在りし日の歌」42篇と、「ゆきてかえらぬ」を冒頭に置く「永訣の秋」16篇の2部構成に仕立てられました。

「在りし日の歌」は、「含羞」から「湖上」までの20篇が「山羊の歌」以前と以後の詩が約半数ずつのグループ、もう一つのグループが「冬の夜」から「北の海」までの10篇で昭和8年〜10年の制作、第3のグループが「頑是ない歌」から「蜻蛉に寄す」までの12篇で昭和11年発表──と三つのグループに分類が可能です。「永訣の秋」は、昭和11年11月〜12年10月発表の16篇です。

<スポンサーリンク>