含 羞(はじらい)

        ――在りし日の歌――
 
 
なにゆえに こころかくは羞(は)じらう
秋 風白き日の山かげなりき
椎(しい)の枯葉の落窪(おちくぼ)に
幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり

枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの
空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ
おりしもかなた野のうえは
あすとらかんのあわい縫(ぬ)う 古代の象の夢なりき

椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちいたり
その日 その幹の隙(ひま) 睦(むつ)みし瞳
姉らしき色 きみはありにし

その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは
わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう……
 
 
 
(注)原文には、「あすとらかん」に傍点がつけられています。

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ひとくちメモ

「在りし日の歌」は
「亡き児文也の霊に捧ぐ」と
詩集タイトルの裏ページに献辞が置かれ、
後記の書かれた日(1937年9月23日)の
ほぼ1年前の1936年11月10日に死んだ
長男文也への追悼詩集という
顔をもっています。

そのうえ
詩集の冒頭に置かれた
「含羞(はぢらひ)」という作品にも
「在りし日の歌」という
副題がつけられています。

「在りし日の歌」というタイトルへの
詩人の並々ならぬこだわりを
感じないわけにはいきませんが
同時に
「含羞」を読むとき
この詩に出てくる
「死児等の亡霊」の「死児」が
文也のことと読み間違える理由が
ここにあることには
くれぐれも注意しなければなりません。

「含羞」の制作は
1935年(昭和10年)11月で
文也の死は
1936年11月です。
「含羞」は
文也の死より前に制作されました。

「がんしゅう」という音読みではなく
「はじらい」と訓読みにしたいのは
文語の詩だからでしょう。
「はぢらひ」というルビは
歴史的仮名遣いのためです。

秋、
風が白くさやいでいる山かげの
椎の枯葉が積もる窪地に
幹々は、
とても大人っぽい感じで立ち並んでいる
幹は、すでに幼さを脱し、
一人前の成木のように大人びている

それを目にしている詩人の心は
含羞=はじらいの感情に浸されているのですが
なぜなのだろう、と
その含羞の立ち上ってくる理由を
自らに質します。

椎の木の枝と枝が交叉するあたりに
なにやら悲しげな空気がただよい
空には、
死んだ子どもたちの亡霊がいっぱいいて
ピカピカ瞬(またた)いています。

この死んだ子どもたちへの幻視は
アルチュール・ランボーの
散文詩「少年時」からの反映で
中原中也のランボー体験が
受容された一例です。

亡霊を幻視する眼差しは
さらにシュールな夢を見ます。

折も折、
向こうの野原の上は

あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

アストラカンの間を縫って
古代の象が
のっしのっし歩いている夢のような光景
……

しばらくして、
目を、
幹に戻すと
また、
異なるイメージが見えてきます。

その日その幹の間にのぞいた睦まじい瞳
亡霊の児らの瞳はなごやかな光を帯び
とりわけ
キミの瞳には、
姉らしい色が映っていた
……

あゝ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐをりをりは

ああ!
過ぎ去った日の、
いまはもう見ることもできない
ほのかだけれど、
鮮やかに燃えた時があった

わたしの心はなぜ
何故、
このように
はじらうのだろう

「あすとらかん」は、フランス語のastrakanで
ロシアのアストラハン地方で生産される子羊の毛皮、
または、
それに似せて作られたビロードの織物のことですが
なぜ、ここに
「あすとらかん」が登場したのか
と問えば……
ここにもフランス象徴詩の影があります。


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