むなしさ

臘祭(ろうさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網(じょうもう)に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)わ
 よすがなき われは戯女(たわれめ)

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇(やみ)を孕(はら)めり
遐(とお)き空 線条(せんじょう)に鳴る
 海峡岸 冬の暁風(ぎょうふう)

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)い
 それらみな ふるのわが友

偏菱形(へんりょうけい)=聚接面(しゅうせつめん)そも
 胡弓(こきゅう)の音(ね) つづきてきこゆ

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ひとくちメモ

「含羞」の次に配置された「むなしさ」は
大正15年(1926年)の作とされ
「後記」に
「最も古いのでは大正14年のもの」とある
「月」(大正14、15年)
「春」(大正14年)
「夏の夜」(大正14年)などと同じく
「在りし日の歌」の中では
「最も古い」作品の仲間です。

「在りし日の歌」の編集当初は
「むなしさ」を冒頭に配置する計画でしたが
発行に至る間に
長男文也が急逝したことによって
「在りし日の歌」全体の構成を変えることになり
追悼詩としての「含羞(はぢらひ)」が
冒頭に置かれました。

こうして第2詩集「在りし日の歌」の
2番目に「むなしさ」は配置されたのですが
中原中也が
いかにこの作品に重きを置いたかを
知っておくことは無意味なことではありません。
「在りし日の歌」は
元をたどれば「むなしさ」にはじまったのです。

作品にある、
臘祭(ろうさい)の「臘」は
「陰暦12月」をさし
「12月のお祭り」のことです。
横浜の中華街の年末には
このようなお祭りが
行われ、現在も行われているのでしょうか。

戯女(たわれめ)は
当時、横浜にあった娼婦の街の
女性のことです。

偏菱形は
「へんりょうけい」と読み、
「偏」は「かたよる」とか「ひとえに」を意味し
「菱形(ひしがた)」が「偏」になっている四角形のことですから
台形のことで

聚接面は
「しゅうせつめん」と読み、
「聚」は「集」の異体字ですから「集接面」で
「集り接する面」の意味となり
「偏菱形=聚接面」は
台形が集り接している面のことです。

これは
「白い薔薇」の「花弁」と喩えた女性の
図形的なイメージや
中華街に見られる
店舗のデザイン(紋様)のイメージでも
可能かもしれません。

ほかにも

条網
胸乳(むなち)
戯女(たはれめ)
線条に鳴る
海峡岸
冬の暁風
胡弓
……

と、難解な漢語・漢文が現れ、
これらが
富永太郎や宮沢賢治や
北原白秋や岩野泡鳴らの
影響であることがいわれますが
これを詩に摂取したのは
中原中也であり
摂取するにはそれ相当の下地があったことを
忘れてはなりません。
摂取する側に下地がなくては
摂取そのものが不可能ですから。

詩人は
元来、勉強家でしたし
多量の書物を読んでいましたし
ダダ詩を作っていた頃にも
難解な語句は頻繁に使われました。

摂取といえば
第3連

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

の「白薔薇」は
遊女をダリアに喩えている
ポール・ベルレーヌの詩「ダリア Un Dahlia」の影響といわれ
中原中也の詩に現れる
フランス象徴詩の
最も早い時期の摂取の例です。

横浜は
詩人の母フクが生まれ、
7歳まで育った土地でしたし
祖父助之が客死した土地でした。
東京に遠縁の中原岩三郎が居住していたように
横浜にも由縁があり
折りあるごとに遊びに出かけましたが
その足はおもむくままに娼婦街へと向かいました。

港町の臘祭(らふさい)の夜、
娼婦に身をやつした女に
詩人は自分を見立てました。

「詩句には岩野泡鳴流の小唄調と田臭を持ったものであるが、「遐き空」「偏菱形」等の高踏的な漢語は、富永太郎や宮沢賢治の影響である。これだけでもダダの詩とは大変な相違であるが、重要なのは、ここで中原がよすがなき戯女に仮託して叙情していることであろう」
(大岡昇平、新全集Ⅱ解題篇より)

と、大岡昇平が読むように
横浜の街の娼婦に
詩人は
己の孤独を重ね合わせ
ふるえるような悲しみの旋律を
シンクロさせたのです。

幻想的なようで
リアルなようで
作り物のようで
写実を孕んだような
詩の世界です。

横浜を題材にした中原中也の作品は
「横浜もの」と呼ばれますが
ほかに
「山羊の歌」の中の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
「在りし日の歌」の中の
「むなしさ」
「未発表詩篇」の中の
「かの女」
「春と恋人」
などがあります。


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