いのちの声

   もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
   ――ソロモン

 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(せきばく)だ。

僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。

時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のものとすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。

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ひとくちメモ

「山羊の歌」は、自選詩集です。
中原中也が自作の中から選択し
配列を考え、タイトルを考え
苦心の末に世に出した詩集です。

中也には、もう1冊の詩集「在りし日の歌」がありますが、
出版を待たずに中也は死んでしまいました。
「山羊の歌」は
中原中也が生きているうちに手にした
たった1冊の自作詩集です。

その詩集の最後に配された作品が
「いのちの声」です。

読んでみると
この詩への力のこもり方に
他の詩とは異なる重さがあるような
力みすら感じられますが
力んで当然とも思えます。

処女詩集の
掉尾(とうび)を飾る作品なのですから。

第1節は、Ⅰというナンバーはふられていませんが、
起承転結の起になっていて、
Ⅱは承、
Ⅲは転、
Ⅳは結という構成になっています。
Ⅰで
寂漠の気分にとらえられる僕だが
ずっぽりとその中に沈潜しているものではなく
何かをいつも求めている
その何かとは何か、と立ち上がった詩は

Ⅱで
それは、手短に説明しようとしても出来ないものなんだ
生きるってことは簡単には説明出来ないものだ
だからこそ生きるということは価値をもっている、
としかいえないような……

と引き継いでいきます。
その後、どう展開していくのでしょうか。

Ⅲでは、
腹にしまい込んでいる怒りがあるのなら
表に出して怒れ! 怒れよ!
怒ることは大事なことだよ
だけれども、決して忘れてはいけない
怒ることが目標なのではない
最後の目標は怒りじゃない
本当の目標を前にして
怒りに足元をすくわれて
次に控えている、最も大切な行為への転調を妨げてはならない

というようなことが詩句化されます。
そして最終節の

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

の1行に何度も耳を傾けてみようではありませんか!

この1行は
これだけが独立したフレーズではありません。

一つの詩の
分断し得ない流れの行き着いた果てに
この1行はあり、
なお、詩集「山羊の歌」の全ての詩の果てに、この1行はあるのです。

この1行は
いろいろなところで紹介され
中原中也という詩人の
作品の基底を流れ
生き方の根本を形づくっている
目標であり理想であり
コンセプト(考え)であることを知ります。

感じることは
そう簡単なことではなく
感じられなかったために
詩人は
自分を責め
感じないものを攻めました。

第1の章
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時でもそれは寂漠だ。

──は、バッハやモーツアルトやジャズも
時には耳ざわりになることがあるから
雨上がりの曇り空の下の鉄橋のように
ドッシリと構えて不平一つ言わないで生きているんだ
でもね、その僕はいつも寂漠に襲われているんだ
という意味を表現したかったのでしょうか。

何事にも動じないで
じっと耐えているような鉄橋は
その内部を、手に負え難い寂寥(せきりょう)に襲われている。

そんなぼくに絶え間なく押し寄せている
寂漠とした気持ちをキミにも分かってほしいものだ。

立派さばかりが目立つ鉄橋でも
内実はこんなものなのだ、と
こうして自問自答がはじまります。

寂漠は、「羊の歌」第4章の
「酷薄の、これな寂莫にほとぶなり……」の
「寂莫」と同じものでしょうか。
「しじま」と読ませていましたが
英語のサイレンスSilenceに
「寂」が加わっているところに中也がいます。

ぼくは、その寂漠の気持ちの中に沈静しているわけじゃない
いつも何かを求めている
恐ろしく形のない不動のものの中にだが、
大変な焦りをも抱いている
そのために、もはや食欲も性欲もないのと同じだ

その何かは、何であるかは分からない
いままで一度も分かったためしがない
それは、二つあるとも思えない
たった一つのことであろうとは思う

しかし、何であるかは分からない
一度とて分かったことはない
その何かに行き着くまでの
一か八かの賭けをやってみても
完全に分かったということはない

時には、ぼく自身をからかうように
自分に聞いてみる
それは女か、甘いものか、栄誉か、と。

すると、心は叫ぶ
それでもない
あれでもない
これでもない

それでは、空の歌か
朝、高い空に、鳴り響く
空の歌とでもいうのだろうか

第1の章はここで終わり
第2の章へ入ります。
起承転結の承で
第1章を受け
さらに突っ込んで
何かについての自問自答が続けられます。

いや、あれこれとははっきりと言えないものだ!
手短に、時には、説明したくなるものではあるけれど
説明など出来ないものであるからこそ
ぼくの人生は生きるに値するんだ、と信じる
それが現実というものだ!
汚れのない幸福というものだ!
現れているものは現れたままによいものであるということだ!

人は皆、知っている知っていないに関係なく
そのことを希望していて
勝ったり敗れたりすることに敏感であるだけの間は
知ることができないものであって
それは、だれでも知っている
放心の快感というものであって
だれもが望み
誰もが、この世に生きている限りは
完全には望み得ないもの!

ここで
一言で言うことができない何かについて
角度を変えての追究。
幸福論が少し持ち出されます。

しかし、幸福というものが
このように無私の領域にあるものであり
あの、賢い商人から見れば、アホとでも呼ぶべきものであれば
飯を食わなければ生きていけない現実世界は
不公平なもであるなあ、と言わねばならない

だけど、それがこの世というもので
その中にぼくたちは生きているのであって
だから、不公平といっても任意の不公平ではなく
それによって、ぼくたち自身も構成されているのだから
この世に、それほどの極端はない、と
ひとまずは、ゆっくり休むというのもいいだろう

第3章へはいります。
起承転結の転です。
そうであるならば、要は、熱情の問題ということになるのだ。

キミよ!
心の底から腹が立つなら
怒れ! 怒れ!

そうは言っても
怒ることは
キミの最終目標の前にあるものであれよ
このことは決して忘れてはいけない
なぜなら熱情というものは、一時は続くけれど
やがて、止んでしまう
その社会的効果だけは続くものだから
キミの次の行為への転換の障害になることがあるから。

第4章
ついに、たどりつきます。
これが、言いたかった。

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

夕方の空の下で
この身一つ
全身に感じることができるなら
何の文句はない。

そのように
詩人は生きるものと思うのです。


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