今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下った琵琶(びわ)は鳴るとしも想(おも)えぬ
石灰の匂いがしたって怖(おじ)けるには及ばぬ
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちている、いやメダルなのかァ
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやろう
ポケットに入れたが気にかかる、月は襄荷を食い過ぎている
灌木がその個性を砥いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色の格子を締めた!

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ひとくちメモ

「月」は、
同名の詩が
第1詩集「山羊の歌」にもあります。

今宵月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(らうなん)の耳朶(じだ)は螢光をともす。

と、はじまる
難解でダダっぽい詩です。
「山羊の歌」2番目に置かれ
大正14年作(推定)です。
「在りし日の歌」の「月」も
同じ頃の制作と推定されています。

大正14年は、
中也が長谷川泰子をともなって上京した年です。
富永太郎を介して小林秀雄を知り
その小林秀雄に泰子を奪われる。
「月」に、
この事件の影があるかどうか、
断定的なことはいえません。

ダダの作風に飽き足らず
フランス象徴詩を
果敢に摂取しはじめていた時期の中原中也です。
この「月」にも
ダダが影をいまだに落としています。

月がミョウガを食べ過ぎている、は、
トタンがセンベイを食べている(「春の日の夕暮」)に
似た表現方法です。

まとも意味を探ろうとすると
ダダの詩は味わえなくなりそうですから、
つっこまないで、
理解できない詩句はそのままにして
詩句は頭の中で
ころがしておくだけにしておくのがよいでしょう。

月がミョウガを食い過ぎている、とは、
朧月(おぼろづき)、とか
三日月よりももっと細い月、とか

ミョウガを食べ過ぎるとバカになる、
とかの俗説を想起させながら、
朦朧(もうろう)とした月、とか
色々な感じ方がありますし、できます。

「月」と題名があるからには
月を歌ったことには違いなく、
物語の気配が感じられます。

文子さんが、月を落っことして、困っているだろうから
明日にでも、届けてやろう

この文子さんは、
第1連の姉妹の一人でしょうか
この「姉妹」にも
ランボー「少年時」の反映があるといわれています。

姉妹は眠り、
その母さんも寝支度をして
紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

これくらいに読んでおけば
ほのぼのとしたドラマで済ませられますが……。

1連の3行

済製場(さいせいば)の屋根にブラ下つた琵琶(びは)は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥(と)いでゐる

ここを読めば
この詩の、
状況が掴めそうです。

潅木が、夜の空に、
高々と聳え立っている
月は、その向こうに
浮かんでいる。

ここには
遠い昔の単なる思い出というよりも
父―母―姉妹ほか家族にまつわる
トラウマ化した幼時体験の
平穏なだけではない物語が
隠されていることが
ぼんやりとながら
見えてきます。


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