青い瞳

     1 夏の朝

かなしい心に夜(よ)が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたというのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかった、
  世界はまだみな眠っていた、
そうして『その時』は過ぎつつあった、
  ああ、遐(とお)い遐いい話。

青い瞳は動かなかった、
  ――いまは動いているかもしれない……
青い瞳は動かなかった、
  いたいたしくて美しかった!

私はいまは此処(ここ)にいる、黄色い灯影(ほかげ)に。
  あれからどうなったのかしらない……
ああ、『あの時』はああして過ぎつつあった!
  碧(あお)い、噴き出す蒸気のように。

     2 冬の朝

それからそれがどうなったのか……
それは僕には分らなかった
とにかく朝霧罩(あさぎりこ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去っていた。
あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬(ほお)を裂(き)るような寒さが残った。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なお)
人は人に笑顔を以(もっ)て対さねばならないとは
なんとも情(なさけ)ないことに思われるのだったが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑いを沢山湛(たた)えた者ほど
優越を感じているのであった。
陽(ひ)は霧(きり)に光り、草葉(くさは)の霜(しも)は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰って食卓についた。
  (飛行場に残ったのは僕、
  バットの空箱(から)を蹴(け)ってみる) 

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「青い瞳」は、
外国人のことではありません。
「青」は、
第4番「早春の風」の
「青き女(をみな)」と同じように読むとよいのかもしれません。
とすると、
これは詩人自身のことになりますか。

昭和10年(1935年)10月頃の制作で、
中原中也28歳。
この年12月に「四季」同人になります。

「中原中也の手紙」の著者、安原喜弘は、
昭和10年「手紙91 6月5日(封書)」(四谷 花園町)の項で、
次のように記します。

「(略)この夏の頃から私たちの往き来は次第に稀になつていつた。私は多く旅に出て
暮らし、彼を訪れるのも月に一度ぐらいであつたろうか。彼は詩壇の一角にその名を
知られ、かなりに多忙な詩人生活であった。この年12月彼は詩誌「四季」の同人にな
つている。(略)私は次に、今手許に残された僅かの手紙により、私にとつてはまこと
に心重い彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(のべ)り終ろうとする。

前年、長男文也が誕生、
第一詩集「山羊の歌」の出版がかない、
充実した詩人生活がはじまっていた時、
安原は、詩人との往来を減らしていました。

安原は、詩人の「四季」入りを
好ましく思っていなかったようでした。

「青い瞳」は、
この流れと直接に関係して
書かれたものではありませんが、
詩人は、ようやく、
「一般読者」を意識して詩作しはじめた、
というようなことは考えられます。

夏の朝は、
その時が過ぎつつあった、
あの時は過ぎつつあった、と、
いまや遠い日となった、
青い瞳の
喪失が歌われ……

冬の朝は、
それから日が経ち
飛行場で
消え去ってゆく飛行機を見送る
寒い朝の
作り笑顔のむなしさが歌われ……

飛行機に残つたのは僕、
バットの空箱(から)を蹴つてみる

と、孤独な僕が
ゴールデンバットの空箱を蹴ってみせるシーンで
締めくくります。

この、オチが利いています。
実に
中原中也にはゴールデンバットが似合います。


<スポンサーリンク>