早春の風

  きょう一日(ひとひ)また金の風
 大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風

  女王の冠さながらに
 卓(たく)の前には腰を掛け
かびろき窓にむかいます

  外(そと)吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風

  枯草(かれくさ)の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

  鳶色(とびいろ)の土かおるれば
 物干竿(ものほしざお)は空に往(ゆ)き
登る坂道なごめども

  青き女(おみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢(こずえ)のとげとげし
今日一日また金の風……

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ひとくちメモ

「早春の風」は、
多くの一般読者に好かれ、
人気のある詩であり、
支持のされ方もさまざまで、
作品にまつわるエピソードも色々です。

初出は帝都大学新聞、昭和10年5月13日号。
現在の東京大学新聞で、
作られたのは、
昭和3年、1928年と推定されています。

安原喜弘へ宛てた中原中也の
昭和7年3月7日付けのはがきに、

(略)この葉書をかきながら、窓外をみると、山のてっぺんの、樹と樹とのすき間をとおして雲の流れてゆくのがみえます。(煙は空に身を慌(すさ)び、日陰怡しく身を嫋ぶ)
昔の歌。(略)

と、この詩の1節、第4連2、3行を
書き付けています。

昭和3年に作り、
どこにも発表していない
昭和7年に安原宛葉書で紹介し、
昭和10年に帝大新聞に掲載された、
という履歴をもつ詩というわけです。

この葉書でいう窓外とは、
中原中也が東京から山口へ帰郷する途次、
京都に住んでいた安原を訪ね、
その後、汽車で向かった
車中から見た広島あたりの景色のことです。

「早春の風」が、
この時の窓外の景色を歌ったものではないのですが
この時
詩人は昔作った歌を思い出して
安原宛葉書に書き留めたのです。
金の風、銀の鈴……と、
思い出させるに充分な風景が、
この時、窓の外にあったのでしょう。

イメージだけで
ぐんぐん押してくる
透明な
童謡のような詩ですが、
この詩は
叙景詩として
そのように素朴に読めるものではなく、

春の風を歌いつつ
終連

  青き女(をみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……

にぶつかるとき、
この詩句が孕む
ドラマを感じないわけにはいきません。

帝都大学新聞へ、この作品を送ったとき、学生が、
もう時季が早春ではないから何とか変えてくれ、と、
タイトルの変更を申し入れてきたことにふれ、
後に詩人は、

「帝都大学新聞が詩を浴衣の売出しかなんかのように心得ているとはけしからん。文化の程度が低いのである」

と、メモを残したエピソードが伝わっています。

このエピソードと関係するわけではありませんが、
この詩が、春という季節を
歌ったばかりのものではないのなら、

女王の冠

とか

青き女の顎

とかにも、
立ち止まらざるを得ません。

少女のあごかと思えるような、
早春の山野の樹木は、
まだ新芽もふくらんでおらず、
枯れ枝ばかりでとげとげしく立っていて、
そこにも光をまぶしたような
金色の風が吹いている

立ち枯れした草を撫でつける風の音は悲しく
雲は空にちぎれちぎれに飛んでいき
木と木の間の陰を楽しそうに通りぬける

鳶の色をした土が香ばしい空気を漂わせ
民家の物干し竿も空高く浮かんでいる
ぼくが登っていく坂道は穏やかでも……

中原中也が安原喜弘に送った
はがきの記述はヒントになりますが、
それにしても
青き女(をみな)の謎は
消えません。

故郷の山河を愛した詩人が
自然賛歌の中に
「女王の冠」
「青き女の顎」
を投じて作り出した「風の物語」

金の風が吹きはじめ
銀の鈴が鳴りはじめ


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