冬の日の記憶

昼、寒い風の中で雀(すずめ)を手にとって愛していた子供が、
夜になって、急に死んだ。

次の朝は霜(しも)が降った。
その子の兄が電報打ちに行った。

夜になっても、母親は泣いた。
父親は、遠洋(えんよう)航海していた。

雀はどうなったか、誰も知らなかった。
北風は往還(おうかん)を白くしていた。

つるべの音が偶々(たまたま)した時、
父親からの、返電が来た。

毎日々々霜が降った。
遠洋航海からはまだ帰れまい。

その後母親がどうしているか……
電報打った兄は、今日学校で叱(しか)られた。

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ひとくちメモ

「冬の日の記憶」は
昭和10年(1935年)12月の制作(推定)です。

すなわち
文也の死亡の前年、
約1年前の制作です。
ですから、
冒頭の

夜になつて、急に死んだ

のは、文也のことではありません。
中也の次弟・亜郎のことです。

4歳の亜郎が亡くなったのは
大正4年1月9日。
中原中也は8歳でした。

中原中也が「詩的履歴書」の冒頭に

―― 大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふの
がヒントをなした。

「詩作」した初めてのこと、と
自ら記した事件でした。

この詩のことではありません。
亜郎の死を歌ったのが
詩作の初体験だった、というのです。

心根のやさしい次弟を
長兄である中也は
ことのほか
可愛がったことが伝えられています。

作中の

父親は、遠洋航海してゐた。

は、父親の謙助が
朝鮮に転任中だったことを意味しています。

最終行

電報打つた兄は、今日学校で叱られた。

は、兄=詩人=私が、
母親の悲しみをねぎらうことができなかった、
という自責の念の表現でしょうか。

電報を打ったりして
詩人は、
長兄であり
長子である役割を
小学生ながら果たしたことを
うかがい知ることができます。

この、
亜郎の死をはじめとして
詩人は、
生前に
肉親の死に合計7回立ち会うことになります。

1921年(大正10年)に、
     養祖父・政熊(66歳)
     中也14歳
1928年(昭和3年)に、
     父・謙助(52歳)
     中也21歳
1931年(昭和6年)に、
     三弟・恰三(19歳)
     中也24歳
1932年(昭和7年)に、
     祖母・スヱ(74歳)
     中也25歳
1935年(昭和10年)に、
     養祖母・コマ(72歳)
     中也27歳
1936年(昭和11年)月に、
     長男・文也(2歳)
     中也29歳
 
肉親の死のほかに
親友であり詩人であった富永太郎の死
文学者・牧野信一の自死
……などにも
遭遇しました。

文壇の寵児・芥川龍之介の自殺のことや
小林多喜二の拷問死のことなども
同時代を生きていた者として
少なからぬ関心があったに違いありません。

とはいえ
詩作品の動機になったのは
やはり
肉親の死でした。

「在りし日の歌」の根底にあるのは
これら肉親の死
とりわけ
「弟・亜郎の死」
「弟・恰三の死」
「長男・文也の死」
……が大きかったようです。


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