秋日狂乱

僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳(くうしゅくうけん)だ
おまけにそれを嘆(なげ)きもしない
僕はいよいよの無一物(むいちもつ)だ

それにしても今日は好いお天気で
さっきから沢山の飛行機が飛んでいる
――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起(おこ)すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか

今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでいる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしていて
子供等(こどもら)は先刻(せんこく)昇天した

もはや地上には日向(ひなた)ぼっこをしている
月給取の妻君(さいくん)とデーデー屋さん以外にいない
デーデー屋さんの叩(たた)く鼓(つづみ)の音が
明るい廃墟を唯(ただ)独りで讃美(さんび)し廻(まわ)っている

ああ、誰か来て僕を助けて呉れ
ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼(な)いたろうが
きょうびは雀(すずめ)も啼いてはおらぬ
地上に落ちた物影でさえ、はや余(あま)りに淡(あわ)い!

――さるにても田舎(いなか)のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)ったか
その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天(しょうてん)の幻想だにもはやないのか?

僕は何を云(い)っているのか
如何(いか)なる錯乱(さくらん)に掠(かす)められているのか
蝶々はどっちへとんでいったか
今は春でなくて、秋であったか

ではああ、濃いシロップでも飲もう
冷たくして、太いストローで飲もう
とろとろと、脇見もしないで飲もう
何にも、何にも、求めまい!……

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ひとくちメモ

「骨」の次に置かれた
「秋日狂乱」。

中原中也の「狂」は
なにもすることがなく
時間をもてあますほどに
考えたり、詩想を練ったり、
在りし日・過ぎし日・幼かりし日を思い出したり

そのうち、倦怠感を抱いたり
ものうくなって、
血を吐きそうになるほどの
もの狂おしい状態をさします。
 
4行8連の
やや長めの口語自由詩で
難解な詩句はありません。

「デーデー屋さん」は
下駄や雪駄を直す人のこと。

昔、さまざまな職業の行商人が
東京の街で見かけられました
納豆少年とか
シジミ売りとか
いかけ屋さんとか……。
そういう職業の一つでしょう。

「ヂオゲネス」も
古代ギリシアの哲学者のことで
それ以上を知らなくてもよいでしょう。

「昇天」が2度出てきますが
どちらも
幸福・幸運を得る、
というような意味で使われています。

お道化た調子ですが
繰り返し読んでいると
やはり中原中也らしい深みが
随所に見られます。

第1連には、いきなり
詩人が
何ものも持たず
それを嘆くこともしない
素裸の人間であることの宣言。

無一物、無所有の者から見れば
以下、2、3連……
好いお天気で
いろんなことがあるけれど
好いお天気で。

空には飛行機がいっぱい飛んで
戦争になるのかもしれない、と
人々は騒いでいるけど
分かったように言うほど
そんなこと誰が知るもんか。

ここには、詩人の
時局への無関心ではなく
関心が表明されていることを
見逃してはいけません。

空の青さは、もう、
涙に潤んでいるほどの
お天気で
子どもたちはさっき遊び呆けて遊びを止めちゃった

地上には、日向ぼっこしているサラリーマンの奥さんと
デーデー屋さんしかいないよ

ああ、ヒマでヒマで仕方ない
誰か、相手になっておくれよ
ディオゲネスの時代なら小鳥のさえずりも聞こえたろうが
今日は、すずめ一つも鳴いていない
物の影さえ、淡いのだ!

ここで、考えさせる1行。

――さるにても田舎のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)つたか

この「田舎のお嬢さん」とはだれか、です。

長谷川泰子の影を
感じるか感じないか、は、
読む人次第ですが、
とうに忘れたはずの「女」が
突然ここに出てきても
おかしくはありません。

この詩の制作は
昭和10年10月。
1935年です。
死の1年前です。

つづく「昇天の幻想」とは
泰子との幸福の幻想ではありませんか。

しかし、ふと、我に返り
今は春じゃなくて
秋だったのか、と
季節を忘れるほどに
僕は、なんだか自分を忘れることもあったけど、と
詩人は醒めます。

甘い、濃いシロップでも飲むことにしよう!
冷たくして、太いストローで
脇目もふらずシロップを飲もう!
他者には、何にも求めずに
自分は、徒手空拳で頑張って行こう!
……。



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