ゆきてかえらぬ

      ――京 都――
 
 
 僕は此(こ)の世の果てにいた。陽(ひ)は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃(ほこ)りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車(うばぐるま)、いつも街上(がいじょう)に停っていた。

 棲む人達は子供等(こどもら)は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜(みつ)があり、物体ではないその蜜は、常住(じょうじゅう)食(しょく)すに適していた。

 煙草(たばこ)くらいは喫(す)ってもみたが、それとて匂(にお)いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外(そと)でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団(ふとん)ときたらば影(かげ)だになく、歯刷子(はぶらし)くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方(めかた)、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕(した)わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山(たくさん)だった。

 名状(めいじょう)しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
        *           *
              *
 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。

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ひとくちメモ

詩集「在りし日の歌」の
「永訣の秋」16篇中に、
中原中也は、
長男文也の死を悼んだ作品を
集めました。
しかし、それらは、
文也の死を直接的に歌ったものとは限りませんでした。

その上、
「永訣の秋」は
もちろん、
「死一色」では、
ありません。

冒頭の4作、
「ゆきてかへらぬ」(四季)
「一つのメルヘン」(文芸汎論)
「幻影」(文学界)
「あばずれ女の亭主が歌った」(歴程)

は、1937年11月の文芸誌に発表されましたが
これらは、
「死」を歌っているばかりの詩ではありませんし、
直接的に死を歌ってはいませんし、
内容も各誌に見合ってまちまちですし、
バラエティーに富んでいます。

「ゆきてかへらぬ」は、
「往きて帰らぬ」で、往き去って帰らない。
「京都」とあるのは、
「京都にて」ではなくて、
「京都で過ごした青春」と受け取れます。

山口中学を落第し、
京都の立命館中学へ転入した中原中也は、
親元を離れたことで、
「飛び立つ思ひ」を抱き
自由な生活を謳歌します。

詩集「ダダイスト新吉の詩」にふれ、
長谷川泰子と同棲し、
富永太郎を知った京都です。

16歳から約3年間を過ごしました。
その京都を、
約15年後に
30歳の詩人が振り返って
めずらしく散文詩にしました。

「在りし日」はここで
「過ぎ去りし日」であり
「死」を指示しません。



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