幻 影

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命(はくめい)そうなピエロがひとり棲(す)んでいて、
それは、紗(しゃ)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びているのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似(てまね)をするのでしたが、
その意味が、ついぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思いをさせるばっかりでした。

手真似につれては、唇(くち)も動かしているのでしたが、
古い影絵でも見ているよう――
音はちっともしないのですし、
何を云(い)ってるのかは 分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧(きり)の中で、
かすかな姿態(したい)をゆるやかに動かしながら、
眼付(めつき)ばかりはどこまでも、やさしそうなのでした。

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ひとくちメモ

「ゆきてかへらぬ」(四季)
「一つのメルヘン」(文芸汎論)
「幻影」(文学界)
「あばずれ女の亭主が歌った」(歴程)

「永訣の秋」冒頭のこれら4作品は、
1937年11月の文芸誌に発表された順序の通りに、
「在りし日の歌」に配置されました。
制作日時も同じ順序であろう、と推定されています。

「幻影」は、
「文学界」1937年11月号に掲載されたのですから、
同年9月以前の制作ということになります。
ということは、
長男文也の死以前の制作です。

この作品で、
詩人は、自らをピエロになぞらえて
詩人のイメージを語るのですが、
第1連、

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、

と、そのピエロが、
薄命そうであることが、
のっけに歌われると、
ギクリとせざるをえません。

中原中也は、この時点で、
死を予感していたのではないか、
などと、
性急な読者のだれかが思っても、
仕方のないことかもしれません。

元気のなさそうな詩人のイメージは、
この詩を作っていた時点で、
単に体調が思わしくなかったことからくるのか、
すでに、死に至る病に冒されていたことからくるのか、
もっと、ほかのことからくるのか、
わからないことですが、
なぜこのピエロはこうも弱々しげなのでしょうか。

答えは
この詩がベルレーヌの
「月光」
「パントマイム」
「あやつり人形」
という三つの詩から
モチーフを引き出していることと
関係があります。

「幻影」の中で
ピエロが浴びている月光や
ピエロが演じている手真似は
ベルレーヌの三つの詩から
そっくり引っ張ってきたもので
似ていないわけがないのです。

中原中也は
メッサン版「ヴェルレーヌ全集」の原文で
「月光Clair de lune」
「パントマイムPantomimé」
「あやつり人形Fantoches」を読み
同時に
川路柳紅訳の「ヹルレーヌ詩集」で
それぞれの翻訳である
「月光」
「身振狂言(パントマイム)」
「あやつり」を読んで
両者をヒントにして
「幻影」を創作したました。

「幻影」には
まったく独自の世界が広がり
中原中也の「道化歌」や
詩論・詩人論を展開した詩の系譜を
よりいっそう豊かにしています。

紗は、薄く透き通った絹織物のことで、
それで作られた服を着たピエロが、
月光を一身に浴びて、
パントマイムでもしているのですが、
そのパントマイムが伝わらないで、
観客に、あわれげに思われるだけだった

身振り手振りで、
くちびるを動かしてしゃべっている振りまでしているのだけど、
まるで、古い影絵を見ているようで、
音も出さないマイムなので
何を言っているのかが伝わりません

あやしく明るい霧の中に
浮かび上がるその姿は
ゆるやかに動いていて、
でも、
眼差しには、
なんともいえない
やさしさがこもっているのがわかりました。

この最後の1行に
ピエロ=詩人へのオマージュがあり、
そのオマージュは、
べルレーヌへの
また自身の詩へのオマージュとなっています。



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