或る男の肖像

   1

洋行(ようこう)帰(がえ)りのその洒落者(しゃれもの)は、
齢をとっても髪に緑の油をつけてた。

夜毎(よごと)喫茶店にあらわれて、
其処(そこ)の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   2
      ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。
 
髪毛の艶(つや)と、ランプの金との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外(そと)に出て行った。

剃(そ)りたての、頚条(うなじ)も手頸(てくび)も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨(かいこん)は、風と一緒に容赦(ようしゃ)なく
吹込(ふきこ)んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   3

彼女は
壁の中へ這入(はい)ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子(テーブル)を拭(ふ)いていた。

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ひとくちメモ

「或る男の肖像」は、
はじめ、
「或る夜の幻想」の一部でした。

「或る夜の幻想」は、
初出の「四季」(昭和12年3月号)では、
6節仕立てで、

第1節 彼女の部屋
第2節 村の時計
第3節 彼女
第4〜6節 或る男の肖像
という構成でしたが、

「在りし日の歌」収録にあたって、
第2節を独立させ「村の時計」とし、
第4〜6節を独立させ「或る男の肖像」としました。

もととなった作品「或る夜の幻想」は
その第1節と第3節が残って、
これも独立した作品になったという経緯があります。

一つの作品が、
このような改竄(ざん)を受けたことを知るのは
「料理の裏側」を見るような驚きがあり、
創作の現場というもの、
詩人の現場での息づかい、
創意と工夫と苦悩と悦楽と
生誕の秘密と……
といった
作品以前を垣間見ることができて
それなりに楽しいのですが、
そんなこと知っていても
知らなくてもOKです。
そんなことは
素朴な読者のハンディではありません。

「或る男の肖像」は
詩人が独立した作品としたのですから、
その作品を味わえばよい、
その歌を聴けばよいのです。

何かごそっと抜けたような感じとか
飛躍とか省略とか欠落とか……
もし、そのような感じがするのなら、
その飛躍とか省略とか欠落とかを味わえばよいのです。

これらは、言い換えれば
ダイナミズムでもあります。
躍動感の源です。
何かしら
動的な詩になっている理由ですし
あらゆる詩が動的である理由です。

1は、
ある洒落男の描写。
すでに死んでいる。
わずか5行で、
ありありと、
その洒落男振りが語られる。
しかし、歳をとっての洒落男振りゆえに
その男、あわれである。

2は、
その男の「在りし日」。
髪を撫でつけ、さっそうと遊びに出て行く男の
すーすーと風が吹き抜けていくような暮らし。

3は、
男の恋人が登場。
彼女は、
「壁の中へ」去ってしまい、
だから、
男は一人っきりで、
汚れの一つもない部屋の
真ん中にあるテーブルを拭いている。

この、
立ち上ってくるような孤独――。

きっと、ここに
詩人がいます。

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