或る女の子

この利己一偏(りこいっぺん)の女の子は、
この小(ち)っちゃ脳味噌は、

少しでもやさしくすれば、
おおよろこびで……

少しでも素気(すげ)なくすれば、
すぐもう逃げる……

そこで私が、「ひどくみえてても
やさしいのだよ」といってやると、

ほんとにひどい時でも
やさしいのだと思っている……

この利己一偏の女の子は、
この小っちゃ脳味噌は、

――この小っちゃな脳味噌のために道の平らかならんことを……

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ひとくちメモ

「或る女の子」も
「白痴群」第6号に発表された作品で
「生ひ立ちの歌」というタイトルで選ばれた
5篇の中の1篇で
「夜更け」とともに
「山羊の歌」に収録されなかった詩篇です。

昭和5年(1930年)1〜2月に制作(推定)されましたが
このころ詩人は
豊多摩郡中高井戸の高田博厚のアトリエの近くに住み
高田との交流を深めていました。

高田は彫刻家でしたから
詩人の顔の塑像を作り
その塑像は消失したものの
写真が「歴程」の中原中也追悼号(昭和13年)に載ったため
後年そのコピーが出回って
広く知られるようになりました。

大岡昇平はこの塑像を
「この時期の中原の凸凹な顔の感じをよく捉えていた」と
評しています。
(「在りし日の歌」)

詩人のこのころの暮しは
大岡昇平以後の研究でも
いろいろと新しいことが分かってきたようですが
大岡によれば

(前略)長谷川泰子と同棲の体制を整えていたわけで、古谷綱武の証言によると、箸でも茶碗でも、みんな二つずつ揃えているのが、いじらしいようだったという。
 泰子は時たま中原の住居を訪れることがあり、中高井戸の家ではしばらく一緒に暮したことがあったのではないかと推測されるのだが、昭和5年12月には、中原ではない男の子供を生む。
(同上書)

と記すように
泰子との距離が
縮まった時期があったようです。

「或る女の子」は
この時期の作ですから
女の子とは
長谷川泰子のことに
違いありません。

この作品は
「白痴群」に掲載されても
「山羊の歌」には選ばれなかったために
ポピュラーにはなりませんでしたが

「白痴群」第6号に載った
「盲目の秋」
「更くる夜」
「わが喫煙」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「妹よ」
「つみびとの歌」
「無題」
「失せし希望」
「生ひ立ちの歌」
「夜更け」
「雪の宵」
「或る女の子」
「時こそ今は……」
の13篇は同格の作品であることに思い致せば
また味わいも深まるということになります。

泰子を歌った
ほかの作品とともに
恋愛詩の名品の一つです。


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