夏と私

真ッ白い嘆(なげ)かいのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思い出の破片の翻転(ほんてん)するをみたり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆(なげ)きを見たり。

燃ゆる山路(やまじ)を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来(こ)し方(かた)に
茫然(ぼうぜん)としぬ、………涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明(あか)さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる。

わが身を見たり、夏としなれば、
そのようなわが身を見たり。

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ひとくちメモ

「夏と私」は
「ノート小年時」に記された草稿が第一次形態で
昭和5年(1930年)10月1日発行の
「桐の花」第15号に発表された作品が第二次形態で
制作は
第一次形態の末尾にあるとおり
昭和5年(1930年)6月14日です。

ただし
発表された第二次形態では
(一九三〇・六・一四)の日付は
削除されたほか
第5連に「……」が追加され
茫然としぬ、……涙しぬ。
とした訂正が加えられています。

この詩を制作したころ
彫刻家・高田博厚がフランスに発ち
詩人は少なからぬ衝撃を受けました。
自身も
フランス行きの願望を強くしたのです。

それで
「来し方」を振り返ると
悔いの残る日々の堆積に
茫然……涙も出てきます。

血を吐くやうな、倦うさ、たゆけさ

と「夏」で歌ってから
ほぼ1年が過ぎて
また夏が訪れましたが
「夏と私」は
初夏の歌です。

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

という
しょっぱなから

血を吐くような倦怠(=けだい)とは
異なる夏
真ッ白い嘆かひ(=嘆き)の中にある詩人は
海の空を飛ぶ
かもめに自分を重ねて見ます。

1年経ったからといって
悲しみが遠のいたというのではなく
鏡の中の自分を見るように
少しだけ距離をおいて
眺めやることができるようになっただけで
海にかもめが飛ぶのを見るうちに
深い溜息が出てくるのを止められません。

かもめは高所から急降下し
また舞い上がり
旋回し
風の中を飛んでいて
それはさながら
詩人の脳裏を
思い出の破片が旋回するのと
シンクロするのです。

夏のことで
振り向けば
後ろの高い山にも
純白の嘆き
ずっと変らない高山を見て
溜息が洩れてきます。

詩人は
太陽を浴びて燃える山の道を登ってゆき
頂上の風に吹かれます――

(海から山へ移動する感覚!)

山の上で風に吹かれていると
自ずと
来し方(こしかた)が思われ
涙茫々……

未だ何もできていない
悔いばかり果てのないその心は
母に伝えたこともなく
友の誰一人にも明かしたことはありません。

「しかすがに」は
「とはいうものの」の意味

とはいえ
望むだけで
手をこまねいて
その大きな望みに圧倒されている私です。

望みは大きくて
手をこまねいているばかりの自分を見る
今年もまた夏がめぐってきて
そうした自分を見るのです。
何もしてこなかった自分……

ああ
僕も
フランスへ行きたい。


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