梅雨と弟

毎日々々雨が降ります
去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は
去年の秋に亡くなって
今年の梅雨(つゆ)にはいませんのです

お母さまが おっしゃいました
また今年も梅酒をこさおうね
そしたらまた来年の夏も飲物(のみもの)があるからね
あたしはお答えしませんでした
弟のことを思い出していましたので

去年梅酒をこしらう時には
あたしがお手伝いしていますと
弟が来て梅を放(ほ)ったり随分(ずいぶん)と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかったと
今ではそれを悔んでおります……

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ひとくちメモ

「梅雨と弟」は
「少女の友」の昭和12年8月号(同年8月1日付け発行)に発表された作品で
第一次形態と第二次形態があります。

第一次形態は草稿として現存し
「梅雨二題」の題の詩篇の第2節にあたります。
「梅雨二題」は
「少女と雨」と「梅雨と弟」で構成され
「梅雨と弟」が
「少女の友」の昭和12年8月号に発表されました。

「少女と雨」は
同誌9月号に発表される予定だったものが
何かの事情で発表されず
したがって
生前未発表となりましたが
詩人没後に
「文学界」の中原中也追悼号(昭和12年12月)に
第二次形態が発表されました。
(「少女と雨」はしたがって「未発表詩篇」に分類されます。)

「梅雨と弟」の第一次形態
すなわち「梅雨二題」第2節は
昭和12年(1937年)の5月〜6月の
制作と推定されていますから
「少女と雨」も
同時期の制作ということになります。

「梅雨と弟」に現れる弟は
詩人の亡くなった弟
一人は
大正4年に死んだ次男の亜郎
一人は
昭和6年に死んだ三男の恰三が
すぐさまイメージされ
二人それぞれを回想している詩と
解釈するのは字義通りですので
いっこうにおかしくはありませんが

弟の死の上に
昨年(昭和11年)11月10日に亡くなった
長男文也のイメージが重ねられていると
受け取るのもまったく自然なことです。

ならば
追悼というよりも
文也の死を
詩人は
作意(虚構)の中にとらえたということであり
「距離をおいて」
見ることができるようになったということになります。

この詩の視点は
少女であるあたしにあり
詩人はあたしに託して
弟=長男・文也の思い出を歌っている
ということになります。


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