一 度

結果から結果を作る
翻訳の悲哀――
尊崇(そんすう)はただ
道中にありました

再び巡る道は
「過去」と「現在」との沈黙の対坐(たいざ)です

一度別れた恋人と
またあたらしく恋を始めたが
思い出と未来での思い出が
ヲリと享楽(きょうらく)との乱舞となりました

一度ということの
嬉しさよ

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ひとくちメモ

「一度」は
久々に
詩人によってタイトルの与えられた作品です。
「ノート1924」の中ごろにあり
1924年夏の制作と推定されています。
 
4行―2行ー4行―2行の4連構成で
第1連は、翻訳の悲哀について
第2連は、その本質
第3連は、恋の復活について
第4連は、結論
 
これを
絵に描いたような
起承転結でまとめています。
 
詩人として食べていくということの困難を
この頃から懸念していたからでしょうか。
翻訳の仕事をする知人がいたのでしょうか。
やがては
ランボーやベルレーヌらの翻訳に打ち込むことになる詩人ですが
どうも否定的な考えしか
生まれてこないようなのは
詩作と比べれば
いたし方のないことと推測されます。
 
結果から結果を作るというのは
創作物という結果を
他の言語に置き換えるという作業が
新たな結果を生むだけのもので
なんとも物足りなく
翻訳している最中には
熱中するに足りる敬愛の気持ちも湧いているのですが
同じ箇所を
何度も繰り返す営みは
過去と現在が
黙ってすれ違うみたいな関係で
満足感はありません。
 
ところが
一度別れた恋人と
再び新しい恋を始めたら
思い出(過去)と
これから起こるであろう(未来の)思い出とが
「オワリ」と享楽の乱舞になったのです。
 
(「ヲリ」と原作にあるのは、詩人の誤記らしく、判読不明とされていますが、ここでは「オワリ」と読みました)
 
一度っていうことが
嬉しいものですね。
 
真剣になるし
繰り返しのだるさがないし
なにが起こるかわからないし……
 
翻訳と恋を
秤(はかり)にかけてどうするのって
感じられなくもありませんが
恋を歌いたい気持ちが
帰ってきたのは
多少余裕が生まれたからでしょうか。
その逆でしょうか。
 
一つの屋根の下で
女性と暮らしながら
生計ためのプランを考える時間も
詩作の時間になったのかもしれません。


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