処女詩集序

かつて私は一切の「立脚点」だった。
かつて私は一切の解釈だった。

私は不思議な共通接線に額して
倫理の最後の点をみた。

(ああ、それらの美しい論法の一つ一つを
いかにいまここに想起したいことか!)

その日私はお道化(どけ)る子供だった。
卑小な希望達の仲間となり馬鹿笑いをつづけていた。

(いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかったことか!
いかにその日の私の神聖だったことか!)

私は完(まった)き従順の中に
わずかに呼吸を見出していた。

私は羅馬婦人(ローマおんな)の笑顔や夕立跡の雲の上を、
膝頭(ひざがしら)で歩いていたようなものだ。

これらの忘恩な生活の罰か? はたしてそうか?
私は今日、統覚作用の一欠片(ひとかけら)をも持たぬ。

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いていた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いていた。

その時私は何か?たしかに失った。

今では私は
生命の動力学にしかすぎない――――
自恃をもって私は、むずかる特権を感じます。

かくて私には歌がのこった。
たった一つ、歌というがのこった。

私の歌を聴いてくれ。

<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「処女詩集序」の処女詩集とは
実現しなかった第一詩集のことです。
その幻の詩集のために
プロローグ=序として作られたのが
この作品で
昭和2―3年(1927―1928年)の制作(推定)です。

少し気負いのある
力んだ詩人宣言の詩は
過去を振り返ることにはじまり

その日私はお道化(どけ)る子供だつた。
卑少な希望達の仲間となり馬鹿笑ひをつゞけてゐた。

と、少年時代を回顧しますが

いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかつたことか!
いかにその日の私の神聖だったことか!

と、否定と肯定が絡まりあう感懐が添えられ
否定的側面は
さらにブローアップされて

私は完(まった)き従順の中に
わづかに呼吸を見出してゐた。

と、抑制された口調ながら
呪詛のように吐き出されます。

これはいつ頃のことを
指示しているのでしょうか。
山口中学を落第する以前の
ある時期のことでしょうか。

回想はやがて
近過去へとたどりつき
ある年の11月の日を

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いてゐた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いてゐた。

その時私は何か?たしかに失った。

と、歌われました。

長谷川泰子との離別の日は
大正14年11月のことです
まだ大きな痛手として
詩人の内部にあるのです。

しかし
その日から

かくて私には歌がのこつた。

と、詩の出発は告げられました。

なにか大きなものを失ったときに
なにか大きなものへの出発がはじめられました。

喪失の中で
詩人が誕生したことを
この詩は宣言しています。

最後の1行
「どうか私の歌を聴いてくれ」には
悲痛さがあります。


<スポンサーリンク>