夏の夜

暗い空に鉄橋が架(か)かって、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりわい)の形をみせて、
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。

吊られている赤や緑の薄汚いランプは、
空いっぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈(とも)っているのだが、
燃え尽した愛情のように美くしい。

泣きかかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱(かきみだ)されてはいるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知っているように、

その胸やその知っていることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのままなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかかわるのだ……。

私の心は腐った薔薇(ばら)のようで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋(ひちょうきん)を慕う。

それにもまして好ましいのは、
オルガンのある煉瓦(れんが)の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐(は)いのぼっている、
埃(ほこ)りがうっすり掛かっている。

その時広場は汐(な)ぎ亙(わた)っているし、
お濠(ほり)の水はさざ波たててる。
どんな馬鹿者だってこの時は殉教者の顔付(かおつき)をしている。

私の心はまず人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛(くも)だ、夏の夕方は紫に息づいている。

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ひとくちメモ

「夏の夜」(暗い空に鉄橋が架かつて)も
幻の第一詩集に選ばれた作品で
昭和2―3年(1927―1928年)の制作(推定)です。

同名のタイトルをもつ作品が
「在りし日の歌」にあり
両作品はしばしば対照されて読まれます。

暗い空に鉄橋が架かつて、

と、はじまるこの詩は
都会の夏の夜を素材にしたもののようで

男や女がその上を通る。

とは、東京の有楽町とか御茶ノ水とか新宿や渋谷……の
ガードのある風景を思わせますし
鉄橋とは
必ずしも鉄道が走っているのでもなく
鉄鋼製の橋(ガード)のことで
それを下から見上げているイメージがありますし

その上を歩く男女とは
ゾロゾロ歩いていて
大勢の人々が行進している雰囲気ですし

その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりはい)の形をみせて、 
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。

とは
詩人らしい観察の結果を感じさせます。

「都会の夏の夜」の
街頭をラアラア唄ってゆく
遊び疲れた男たちや
「正午」の
ビルの小さな出口から
ゾロゾロゾロゾロ出てくる
サラリーマンたち
……

都会の群集を
立ち止まって見ている
詩人の眼差しが
すぐさま連想されます。

この詩
「夏の夜」(暗い空に鉄橋が架かつて)に
特徴的なのは
しかし
第1節末尾に

それが私の憎しみやまた愛情にかゝはるのだ……。

と、あり
これを受けて
第2節が展開しているところでしょうか。

夏の夜の都会の風景を観察する目は
やがて
私=詩人の心に向けられるのです。

その心は
腐った薔薇のよう……
と、ズバリと象徴的にとらえられるのですが
それが
夏の夜の靄にあっては
淋しがってすすり泣く

「若い士官の母指(おやゆび)の腹」
「四十女の腓腸筋(ひちょうきん)」

と、意味不明の
ダダっぽい「喩」に回帰して
この詩に謎を残してしまいました。

果敢にそこを読んでみれば
「腓腸筋」とはふくらはぎの筋肉のことですから
「母指の腹」とともに
人間の四肢の柔らかい部分という意味で

「腐った薔薇」のような心は
枯れ死んでしまったわけではなく
息もたえだえではあるけれど
生きている花なのだから
夏の夜には靄の中で淋しがってすすり泣き
男なら「母指の腹」
女なら「腓腸筋」
のような優しさ柔らかさを望む
というほどに取ればよいでしょうか。

それよりももっと好ましいのは
オルガンのある
レンガ造りの館
ツタが這いのぼり
黒々として
ホコリもうっすらとふりかかっている
教会かなにかです。

広場は静かに凪ぎわたり
お堀端の水面はさざなみが立つほどにおだやかで
どんなお馬鹿さんでも
この時ばかりは静粛に
殉教者の表情を作っています
私=詩人の心は
まずは人間の生活について考えるのですが
そして私自身の仕事である詩について
一生懸命練磨するのですが
結局のところ
私=詩人は
バラ色の蜘蛛に過ぎません。
夏の夕方にでもなれば
紫色になって呼吸しているのです。
最後に来て
「喩」は
難解で意味不明であることからは脱するのですが
「薔薇色の蜘蛛」
「紫に息づいてゐる」
の象徴表現に戻って
意味の永劫回転をはじめます。
これを受け取るのは
読み手の自由になります。


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