聖浄白眼

神に

面白がらせと怠惰のために、こんなになったのでございます。
今では何にも分りません。
曇った寒い日の葉繁みでございます。
眼瞼(まぶた)に蜘蛛がいとを張ります。

(ああ何を匿(かく)そうなにを匿そう。)

しかし何の姦計(かんけい)があってからのことではないのでございます。
面白がらせをしているよりほか、なかったのでございます。
私は何にも分らないのでございます。
頭が滅茶苦茶になったのでございます。

それなのに人は私に向って断行的でございます。
昔は抵抗するに明知を持っていましたが、
明知で抵抗するのには手間を要しますので、
遂々(とうとう)人に潰されたとも考えられるのでございます。

自分に

私の魂はただ優しさを求めていた。
それをそうと気付いてはいなかった。
私は面白がらせをしていたのだ……
みんなが俺を慰(なぐさ)んでやれという顔をしたのが思いだされる。

歴史に

明知が群集の時間の中に丁度よく浮んで流れるのには
二つの方法がある。
一は大抵の奴が実施しているディレッタンティズム、
一は良心が自ら楝獄(れんごく)を通過すること。

なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない!
女・子供のだって、乞食のだって。

歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつつある?
おお、念力よ!現れよ。

人群(じんぐん)に

貴様達は決して出納掛(すいとうがかり)以上ではない!
貴様達は善いものも美しいものも求めてはおらぬのだ!
貴様達は糊付け着物だ、
貴様達は自分の目的を知ってはおらぬのだ!

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ひとくちメモ

「聖浄白眼」の「聖浄」は
「しょうじょう」と仏教の言葉としてよむのでしょうか。
六根清浄、お山は晴天
(ロッコンショウジョウ、オヤマハセイテン)の「清浄」が
掛けられてあるのでしょうか。
「白眼」は、では、白眼視の白眼か
単に、白い目のことでしょうか。

中原中也は
山口中学時代に
「喝!」を入れられることを親に命じられ
仏教寺院への短期修行を経験しています。

大岡昇平はそのことを

中也は既に親のいうことをきかない子である。十一年八月と十二月に「思想匡正」の意味で、大分県の東陽円成師の寺へやられる。これは恐らく当時の一燈園運動と並んで、本願寺の一分派であって、中也は『歎異抄』の新解釈を吹き込まれて帰って来たものと考えてよい。暫くは便所へ通うの「なんまいだぶ」を唱えていたと伝えられている。信心がその後どこへ行ったかは分明ではないが、以来中原の詩と思想の底流をなしていたと考えることが出来るのである。
(「朝の歌」所収「京都における二人の詩人」)

と書いています。

山口中学を落第する前の年のことで
親の期待を裏切って
「思想匡正」はならず
そのうえ落第となる中也ですが
大岡の言うとおり
仏教体験は
中原中也の詩および思想の底流に巣食い
この「聖浄白眼」のように
ひょっこりと顔を出すことがあるのです。

「聖浄白眼」を書いた1927年から1928年にかけて
どのような経緯で
詩人の中に「聖浄」が想起されたのかといえば
それは
詩集を世に問うという段になって
詩とはなにか
詩人とはなにか
という問いへ答える必要があり
アイデンティティー
自己証明
存在証明を固める過程で
想念の中に古い経験がよみがえったからでしょう。

そのために
詩論の詩
詩人論の詩は書かれ
「聖浄白眼」では

自分に
歴史に
人群に
の4項目にそれらを整理しました。

この頃の中也には
神と仏とに分け隔てはないようで
かえってそれゆえに
初の詩集への意気込みが
感じられますが

面白がらせと怠惰のために、こんなになつたのでございます。

とは
神への偽らざる告白の形で
人を面白がらせること、と
自分の怠惰によるもの、と
外的と内的と
両面から
詩の動機を訴え……

貴様達は決して出納掛以上ではない!

とは
世俗に生きる人々へのメッセージの形でしょうか
「!」を添えた説教のような口調で
金の計算ばかりに終始する
衆生を唾棄する言葉の一つですが
ここに湿潤さはなく
乾いた響きがあるのは
このことは詩人がこれまでに格闘してきた
過去であるためで
そのことを乗り越えてしまった詩人の言葉であるために
軽味(かろみ)があり
高飛車さを脱しています。

行末の「!」は
感情の強調であるよりは
この感情を手なずけてきた過去が
乗り越えられ
客観化された印みたいなものとして
受取ることが可能です。


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