湖 上

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けましょう。
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。

沖に出たらば暗いでしょう。
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞えましょう、
あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

月は聴き耳立てるでしょう、
すこしは降りても来るでしょう。
われら脣(くち)づけする時に、
月は頭上にあるでしょう。

あなたはなおも、語るでしょう、
よしないことやすねごとや、
洩らさず私は聴くでしょう。
けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けましょう。
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。

(一九三〇・六・一五)

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ひとくちメモ

「湖上」は
昭和5年(1930年)6月15日の制作で
「夏と私」と同様に
古谷綱武が編集する同人誌「桐の花」に
「夏と私」が第15号(昭和5年10月発行)に
「湖上」は第13号(同年8月号発行)に
それぞれ発表されました。

「湖上」はさらに後に
「在りし日の歌」に収録されますから
「ノート小年時」に書かれた草稿は第一次形態
「桐の花」発表作品は第二次形態
「在りし日の歌」作品は第三次形態ということになります。

「夏と私」で
「真ッ白い嘆かひ」の中にあった詩人は
1日おいて
恋人との至福の時間を歌います。

といっても
「ノート小年時」は
詩篇の清書用に使われていたノートですから
こういうことは
起こって当然のことです。
清書した日が
1日ずれただけのことですから
作品内容が常に時系列で
整理されているとは限りませんし
また作品内容が状況に
必ずしも規定されるわけでもありません。

苦難の最中に
過去の幸福な思い出を
作品にする場合があっても
おかしくないということもあります。

「湖上」は
昭和5年6月15日の日付をもつ
「ノート小年時」中の
最も新しい時期に書かれた作品です。
「夏と私」とともに
昭和5年内の詩は
この2篇しかありません。

前年と
決定的に状況が違うのは
「白痴群」が
この年の6月に廃刊された事実です。

同人組織が解体し
ほとんどの同人が
詩人から離れてゆきます。
詩人は
再び孤独の戦場に
立たされているのです。

「桐の花」は
「白痴群」同人の古谷綱武が
責任編集者でしたから
そのよしみでの掲載ということでしたが
恋人とのボート上のひとときを歌った「湖上」や
真ッ白い嘆かひを歌った「夏と私」を発表するには
このような背景があったことを
知っておいて無駄ではありません。

「湖上」が書かれた
昭和5年(1930年)の年譜を
「ノート小年時」の最後に
読んでおきましょう

昭和5年(1930) 23歳

1月、「白痴群」第5号発行。
4月、「白痴群」第6号をもって廃刊。
5月、「スルヤ」第5回発表会で「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)「老いたる者をして」(諸井
三郎作曲)が歌われる。
8月、内海誓一郎の近く、代々木に転居。
9月、中央大学予科に編入学。フランス行きの手段として外務書記生を志し、東京外国語学校入
学の資格を得ようとした。
秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。
12月、長谷川泰子、築地小劇場の演出家山川幸世の子茂樹を生み、中也が名付け親となる。


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