「早大ノート」について

そもそもなぜ「早大ノート」と呼ばれているかというと、中原中也が昭和5年9月初旬から同6年7月下旬まで住んでいた東京・代々木山谷112近間方に、早大専門部の学生、福田嘉一郎が住んでいて、この福田が所有していた早稲田大学の校章や「WASEDA.UNIV.」などの文字が印刷されたノートを詩人が譲り受けて使用していたものに多くの詩が書かれていたのを、角川版旧全集編集の過程で「早大ノート」と呼ぶことにしたのです。
 
このノートの最も古い記述はしたがって、昭和5年(1930年)9月以降であると考えられ、その最初の詩作品が「干物」で、最も遅くなって書かれたのが昭和12年(1937年)の「こぞの雪今いずこ」と推定されています。
 
1930年から1937年までの間に作られた作品42篇が、この「早大ノート」に記されたということになり、8年間、このノートが使われたことになりますが、この間、満遍なく詩が書き継がれたというわけではありません。
 
全42篇のタイトルを制作年順にみておきます──。
 
<1930年>
干物
いちじくの葉
カフェーにて
(休みなされ)
砂漠の渇き
 
<1931年>
(そのうすいくちびると)
(孤児の肌に唾吐きかけて)
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)
Qu’est-ce que c’est que moi?
さまざま人
夜空と酒場
夜店
悲しき画面
雨と風
風雨
(吹く風を心の友と)
(秋の夜に)
(支那というのは、吊鐘の中に這入っている蛇のようなもの)
(われ等のジェネレーションには仕事がない)
(月はおぼろにかすむ夜に)
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
死別の翌日
コキューの憶い出
細心
マルレネ・ディートリッヒ
秋の日曜
 
<1932年>
(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴ったので)
(七銭でバットを買って)
(それは一時の気の迷い)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやろう)
(自然というものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
 
<1936年>
酒場にて(初稿)
酒場にて(定稿)
 
<1937年>
こぞの雪今いずこ
 
以上のように1、5篇は1930年制作(推定)のもの。2、22篇が1931年制作(推定)。3、12篇が1932年。4、2篇が1936年(昭和11年)。5、1篇が1937年(昭和12年)でした。1933、34、35年(昭和8、9、10年)に制作された詩は、「早大ノート」の中にはありません。合計42篇の未完成詩篇や完成作品が記録されているということは、1冊の詩集を編むことのできる数ですが、詩人にその意図はありませんでした。

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