夏と私

真ッ白い嘆かいのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思い出の破片の翻転(はんてん)するを見たり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来(こ)し方(かた)に、
茫然(ぼうぜん)としぬ、涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる、

わが身を見たり、夏としなれば、
そのようなわが身をみたり。

(一九三〇・六・一四)

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ひとくちメモ

血を吐くやうな、倦うさ、たゆけさ
と歌ってから
ほぼ1年が過ぎて
また夏が訪れましたが
「夏と私」は
初夏の歌です

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

という
しょっぱなから

血を吐くような倦怠(=けだい)とは
異なる夏
真ッ白い嘆かひ(=嘆き)の中にある詩人は
海の空を飛ぶ
かもめに自分を見ます。

1年経ったからといって
悲しみが遠のいたというのではなく
鏡の中の自分を見るように
少しだけ距離をおいて
眺めやることができるようになっただけで
海にかもめが飛ぶのを見るうちに
深い溜息が出てくるのを止められません。

かもめは高所から急降下し
また舞い上がり
旋回し
風の中を飛んでいて
それはさながら
詩人の脳裏を
思い出の破片が旋回するのと
シンクロするのです。

夏のことで
振り向けば
後ろの高い山にも
純白の嘆き
ずっと変らない高山を見て
溜息が洩れてきます。

詩人は
太陽を浴びて燃える山の道を登ってゆき
頂上の風に吹かれます。

(海から山へ移動する感覚!)

山の上で風に吹かれていると
自ずと
来し方(こしかた)が思われ
涙茫々……

未だ何もできていない
悔いばかり果てのないその心は
母に伝えたこともなく
友の誰一人にも明かしたことはありません。

「しかすがに」は
「とはいうものの」の意味

とはいえ
望むだけで
手をこまねいて
その大きな望みに圧倒されている私です。

望みは大きくて
手をこまねいているばかりの自分を見る
今年もまた夏がめぐってきて
そうした自分を見るのです。
何もしてこなかった自分……

「夏と私」は
昭和5年(1930年)6月14日制作の作品で
同人誌「桐の花」第15号(昭和5年10月発行)に
発表されました。

「ノート小年時」の中の
昭和5年制作の詩は
「湖上」とこの詩の2篇だけになります。


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