(風が吹く、冷たい風は)

風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝

僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ

昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ

(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)


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ひとくちメモ

(形式整美のかの夢や)と
(風が吹く、冷たい風は)と
(とにもかくにも春である)の3作品は
はじめ一つの作品と考えられていましたが
新全集編集で再検討された結果
それぞれ独立した詩篇になりました。

このような理由で
3作品にはいくつかの共通点があり
なかでも目立つのが
いずれもが
▲で節を区切っていることです。

これは
この3作がはじめ連作詩として構想されていた結果と
解釈されています。
連作詩であるからには
内容や形式などに
なんらかの共通性があるものですが
その一つが▲での区切りなのです。

(風が吹く、冷たい風は)は
冷たい風が吹きつける窓ガラスは
蒸気が凍って
うっすら白くかすんでいて
遠くの山が
そのガラス窓を透かしてぼんやり見える朝に
汽車に乗って
どれほどの距離を走ってきたものでしょうか
はるばる旅をしてきて
希望とか悔恨とか
常日頃の一喜一憂も
さすがについて来ないので
手ぶらで走っているように爽快で
胸の中にはすっからかんの嬉しさ

――というようなことを歌いますが
やがて汽車は
小倉の駅に着き
散水車がチョコンと置かれ
小倉服の駅員が寒そうにしているのが見えると

幻燈風景七里結界に係累はないんだ
(娑婆に一族同胞なんていないものさ)

――ということを思い知って
少しは寂しくなりました、と
結ばれて終わる作品です。

(形式整美のかの夢や)の「風寒み」と
(とにもかくにも春である)の「寒かつた」と
(風が吹く、冷たい風は)の
「小倉服の駅員が寒そうにしている」と
「寒」の字のつながりが
気がかりな連作です。


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