(形式整美のかの夢や)


高橋新吉に

形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み

希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と

身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる

(一九三三・四・二四)


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ひとくちメモ

(形式整美のかの夢や)は、
旧全集編集まで
(風が吹く、冷たい風は)と
(とにもかくにも春である)を含んだ
一つの作品と考えられていましたが
新全集編集で再検討された結果
これら3作品は
それぞれ独立した詩篇に見做されることになりました。

1933年という年に
ダダイスト高橋新吉への献呈詩を
なぜ書くことになったのか。

(形式整美のかの夢や)にたどり着いた読者は
懐かしい人に巡り合ったような
感慨をいだくとともに
小さな疑問をもつことになるかもしれません。

なにしろ
詩人が「詩的履歴書」に

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

――と記した大正12年(1923年)から
10年という月日が流れています。

1933年に3月22日付けの
親友・安原喜弘宛の葉書に

東京市目黒区下目黒四丁目八四二 安原喜弘様
山口市湯田 中原中也 二十二日

二十一日 無事帰り着きました 当地はまだ冷たい風が吹きすさんでゐます 山の梢ばかりが目に入るといふふうです
奈良には二泊しました
鹿がゐるといふことは
鹿がゐないといふことではない
奈良の昼
と日記に書きました
怱々

――とありました。

鹿がゐるといふことは
鹿がゐないといふことではない

――とは、アフォリズムか何かのつもりでしょうか。
いや、そんなことはどうでもよく
ここにポエジーというものがすでにある、という
そのわけが分かればOKなのですが……。

在るということは
無いということではない、
などと同じく
初期数学の定理の説明のような
あるいは
論理学の初歩の公式のような
「遊びの世界」が
感じられます。

つまり
ダダが感じられます。

この葉書の
約1か月後に
(形式整美のかの夢や)は作られました。

形式整美とは
ダダが目指した形なき形か
破壊し破壊し尽くしたところに
新たな美を打ちたてようとした運動の目標のことか

その夢は
もはや地に落ちて
私は今、険しい山の道を行く
土は硬く
風は寒い
……

しかし
そう心配することでもないよ
自然が私の味方だ
血は自ずと不可思議の歌を奏でる
歌は廃(すた)れることはない
……

新吉へ
エールを送る
詩人の姿が
浮んできます。


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