(とにもかくにも春である)


此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。

とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。

パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカー
キシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが

旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、

めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。

闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って

寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた


おお、父無し児、父無し児

雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。


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ひとくちメモ

(とにもかくにも春である)は
4節で構成される力のこもった作品で
詩の冒頭、第1節には
「此の年、三原山に、自殺する者多かりき。」という
エピグラフが置かれています。

「小唄」で
三原山の自殺を歌ったのは
1933年2月17日で
2か月少し経っているだけですから
詩人の関心は4月になっても
持続していたということになります。

第2節のエピグラフは
「パツパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウハバミカー
キシヤヨ、キシヤヨ、アーレアノイセイ」

第3節はエピグラフがなく
第4節は、
「おゝ、父無し児、父無し児」が
それぞれ付されていて
各節は▲で区切られている作品です。

旧全集編集では
(形式整美のかの夢や)
(風が吹く、冷たい風は)と
一体の作品と考えられていましたが

いいだもも宅から発見された草稿や
安原喜弘宛の書簡(1933年4月25日付)に
同封されたこの作品などを再考証した結果
それぞれ独立した作品として
扱われることになりました。

第1節で
三原山の自殺のニュースを
エピグラフとするスタンスは
第2節以降
三原山から離れているように見えながらも
堅持されます

第4節のエピグラフ
「おゝ、父無し児、父無し児」は、
詩人の視線が
自殺者が残したものへと向かい
やがて
残された者に成り代わって
詩人は歌いはじめるものだ、と
その瞬間を歌い
その経緯を歌い
詩人としての決意が表明されているかのように
読み取れなくもないのですが……

決意の表明にしては
その口調は
沈鬱(ちんうつ)であり
元気がありません。

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