夏の記臆

温泉町のほの暗い町を、
僕は歩いていた、ひどく俯(うつむ)いて。
三味線(しゃみせん)の音や、女達の声や、
走馬燈(まわりどうろ)が目に残っている。

其処(そこ)は直(す)ぐそばに海もあるので、
夏の賑(にぎわ)いは甚(はなは)だしいものだった。
銃器を掃除したボロギレの親しさを、
汚れた襟(えり)に吹く、風の印象を受けた。

闇の夜は、海辺に出て、重油のような思いをしていた。
太っちょの、船頭の女房は、かねぶんのような声をしていた。
最初の晩は町中歩いて、歯ブラッシを買って、
宿に帰った。――暗い電気の下で寝た。

(一九三三・八・二一)

(注)原文には、「かねぶん」に傍点がつけられています。


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ひとくちメモ

副題に
「別府」とあったが
消されて
「夏の記臆」のタイトルだけが残った作品。

ですから
冒頭の「温泉町」は
別府のことらしいのですが
この詩の制作当時(1933年8月21日前後)に
詩人が別府に行った形跡はありません。

あるいは
お忍びで
別府へ遊んだことがあったのでしょうか。
それとも
遠い日の思い出なのでしょうか。

タイトルの「夏の記臆」からすれば
近い過去とも
遠い過去とも取れますが
同日制作の
「夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました」
「燃える血」の流れから
近過去、遠過去と続けて
こんどは、どちらにも取れる時間を
作り出したのかもしれません。

作り出すといっても
フィクションにする意図を
詩人は好みませんから
実体験に基づいているはずで
ならば
やはり、別府へ最近行き
その経験を
副題から抹殺して
歌ったとするのが
自然でしょうか――。

温泉のある、ほの暗い町を
僕は歩いていた、ひどくうつむいて。
三味線の音や、女たちの声や、
回り灯籠が目に焼きついている

そこは、すぐそばに海もあるので
夏中の賑わいは大変なものだったよ
ピストルを拭いた襤褸(ぼろ)切れがあるだろ
あれみたいに十分役に立ってくれたという親しみみたいな
汚れたシャツの襟元に吹く
風の印象があった

闇の夜に、海辺に出て
重油のような思いを抱えていた
デブの、船頭の女房が、カナブンのような声でしゃべっていた
最初の晩は、町中を歩いて、
歯ブラシを買って
宿に帰ったよ
その日は
暗い電気の灯りの下で寝たさ


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