京浜街道にて

萎びたコスモスに、鹿革の手袋をはめ、それを、霊柩車(れいきゅうしゃ)に入れて、街道を往く。

風と陽は、まざらない……

霊柩車、落とす日蔭に、落ちる涙はこごめばな。

(一九三三・九・二二)


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ひとくちメモ



1933年(昭和8年)9月22日という日に
中原中也は
東京府荏原郡馬込町北千束621に住んでいて
(現在の東京都大田区北千束2丁目)
京浜街道は近しい通りでした。

後輩の詩人・高森文夫の伯母の家に
間借りし、
文夫の弟・淳夫ともども
一つ屋根の下で暮らしていました。

ここは
多摩川もそう遠くはなく
県境である多摩川を越えれば川崎で
詩人は
京浜街道をタクシーで走ったり
歩いたりしたことが
あったのでしょうか。

街道を通って
詩人は
何を感じ
何を歌ったのでしょう。

「京浜街道にて」は
説明を拒むものがあり
飛躍や省略や断絶があり
謎が残る詩です。

しなびたコスモス
鹿革の手袋
霊柩車
……

風と陽光は
まざらない
……

日蔭
落ちる涙
こごめばな
……

こごめばなは、
小さな米、小米花で
柳のようにしなった枝に
小さな花を多量に咲かせる
雪柳(ユキヤナギ)の別名です。

落ちる涙はこごめばな、は
だから、たくさんの涙を流した、
ほどの意味になります。

京浜街道を走っていった
霊柩車を
通りがかりに見ただけなのか
だれか
知り合いにかかわる霊柩車なのか
亡くなった弟たちや
父親や祖母や……
祖先や……
家族を思い出したのでしょうか。

詩人は
それを明らかにはしませんが
こころにひっかかりました。

ひっかかったものを
そのまま
記しておいたような
詩への途上のような
原形だけの言葉の詩になりました。


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