昏 睡

亡びてしまったのは
僕の心であったろうか
亡びてしまったのは
僕の夢であったろうか

記臆というものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまいがするよう

何ももう要求がないということは
もう生きていては悪いということのような気もする
それかと云(い)って生きていたくはある
それかと云って却に死にたくなんぞはない

ああそれにしても、
諸君は何とか云ってたものだ
僕はボンヤリ思い出す
諸君は実に何かかか云っていたっけ

(一九三四・四・二二)


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ひとくちメモ

1934年の中原中也は
どのような活動をしたか
年譜を見ておきましょう。

昭和9年(1934年) 27歳
「紀元」「半仙戯」への詩の発表が続く。
「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
2月 「ピチベの哲学」、6月「臨終」など。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボー全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書簡 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月末上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日長男文也が生まれる。
11月、このころ「歴程」主催の朗読会で「サーカス」を朗読。草野心平を知る。
この月、「山羊の歌」出版が文圃堂に決まる。草野の紹介で、高村光太郎に装幀を依頼。またこのころ、檀一雄を知り、檀の家で太宰治を知る。
12月、高村光太郎の装幀で文圃堂より「山羊の歌」を刊行。限定200部。うち、市販150部。発送作業後山口に帰省し、文也と対面する。翌年3月まで滞在し、「ランボー全集」のための翻訳に専念する。
(洋数字への変更や改行の追加などを施してあります=編者)

前年12月に結婚し、
新宿・四谷の花園アパートで生活する詩人でした。

10月には長男が生まれました
詩の発表も活発化、
文学者との交流を盛んに行い
ランボーの翻訳では
帰省して専念するほど熱を入れました
12月には、「山羊の歌」を出版しました

「昏睡」は
このような年の
4月に制作されましたが、
このような年の前年12月に
詩人は結婚しましたから
結婚約5か月後の作品ということになります。

年譜に見られる
充実し安定し活発な
詩人の活動とはうらはらに
「昏睡」が歌っているのは
「何ももう要求がないといふ」
ニヒルな
無感動な状態です。

単に、
無感動ということでもなく

記憶といふものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまひがするやう

どこか
遠いところへまぎれてしまったのだか
昨日まであったことが
今とまったく関係のない過去になってしまったのだか
記憶というものが
なんにもなくなってしまって
道を歩いていても
すべてが見知らぬもので
すべてが新しすぎて
すべてがよそよそしくて
めまいがする

僕の心が
滅びてしまったのか
僕の夢が
滅びてしまったのか

君たちが
なんだか言っていたようだ
ぼんやり思い出す
確かに
君たちがなんだかんだと言っていたようだが……

泥のような眠りの底から
記憶をよみがえらせようとすると
ようやく
ぼんやりと
君たちの声がボソボソ言うのが聞こえてくる

何か言っていたねえ、そういえば……


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