夜明け

夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似ていた。
水仙(すいせん)は雨に濡(ぬ)れていようか? 水滴を付けて耀(かがや)いていようか?
出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。
鶏(にわとり)が、遠くの方で鳴いている。――あれは悲しいので鳴くのだろうか?
声を張上げて鳴いている。――井戸端(いどばた)はさぞや、睡気(ねむけ)にみちているであろう。

槽(おけ)は井戸蓋の上に、倒(さかし)まに置いてあるであろう。
御影石(みかげいし)の井戸側は、言問いたげであるだろう。
苔(こけ)は蔭(かげ)の方から、案外に明るい顔をしているだろう。
御影石は、雨に濡れて、顕心的(けんしんてき)であるだろう。
鶏(とり)の声がしている。遠くでしている。人のような声をしている。

おや、焚付(たきつけ)の音がしている。――起きたんだな――
新聞投込む音がする。牛乳車(ぐるま)の音がする。
《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》
脣(くち)が力を持ってくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。

(一九三四・四・二二)


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ひとくちメモ

「昏睡」と同日に制作された詩篇は
ほかにも
「夜明け」
「朝(雀の声が鳴きました)」
「狂気の手紙」があり
1934年4月22日制作の詩篇は
合計4篇あるということになります。

このうちの
「狂気の手紙」を除く3篇は
「いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)」とともに
季刊誌「創元」第1輯(昭和21年12月30日発行)に
掲載されました。

中原中也没後の発表になり、
「生前発表詩篇」には分類されませんから
「未発表詩篇」に集められています。

「創元」は
小林秀雄が編集責任者であり
戦後、最も早く中原中也を評価したメディア
――ということになりますが
それは
当たり前すぎることです。

大岡昇平が
フィリピン戦線から帰還し
「俘虜記」を刊行するのは
昭和23年ですから
中原中也の詩を公開するのにふさわしいのは
小林秀雄以外に
そう多くは存在しなかったことでしょう。

小林秀雄は
少なくとも文壇の中枢に
存在していました。

敗戦の
廃墟の中に
戦争を経験しないで死んでいった詩人が
27歳の時に書いた詩が
どのように読まれ
受け入れられたのでしょうか。

「夜明け」は、
人々が、
まだ誰も起きださない朝に
近くで雀が鳴き
遠くで鶏が鳴き始め
……
やがて
釜戸を焚く音がして
新聞配達が新聞を投げ込む音がして
牛乳配達の車が音がして
しまいには
カラスも鳴き出す

たわいもない
朝の風景を
歌っているのですが
それが
敗戦の廃墟に暮らす人々に
新鮮な響きをもって
読まれることは
なんの不思議ではありません。

無論
詩人が
この詩を歌った時
そんなことを夢にも思っていませんでしょうが
廃墟の中で
この詩を読んだ人が
なにかしら
生きている実感を抱いたり
元気が出てくるのを感じたりするのも
なんの不思議ではありません。

小林秀雄も
必ずや
そんなことを
「夜明け」に感じたのではないでしょうか。

第2連第4行にある「顕心的」は
どうも
中原中也特有の造語であるらしく
「こころを顕(あらわ)にする」の意味と取るのが習いで
したがってこの行は
御影石が雨に濡れて、
こころを見せている、というほどの意味になります。


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