月下の告白

青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りょう)
あばた面(づら)なる墓の石
虫鳴く秋の此(こ)の夜(よ)さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺蹟(いせき)もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらえて
此の先何を為すべきか
石に腰掛け考えたれど
とんと分らぬ、考えともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるようにみゆるをみれば
さてもなつかしいたわししたし
さてもなつかしいたわししたし

(一九三四・一〇・二〇)


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ひとくちメモ

「月下の告白 青山二郎に」は
「秋岸清凉居士」と同じ日
1934年10月20日の日付をもつ作品で
内容も同じく
1931年9月に亡くなった弟・恰三を追悼した詩です。

この日の2日前である
1934年10月18日に
第一子が誕生しました。
詩人は18日の日記に
「八白先勝、みづのえ。午後一時 男児生る。」
とだけ記しています。

詩人は、
長男の誕生を電報で知りますが
この18日の夜は
青山二郎、竹田鎌二郎と
新宿、銀座、日本橋を飲み歩いたことが
この竹田鎌二郎の日記に書かれていて
祝杯のシーンを想像することができます。

青山二郎が
この詩を中原中也が制作した翌日19日に
金沢へ骨董の買い出し旅行に出かけたため
かねて詩人が青山に依頼しておいた
「山羊の歌」の装丁を
急遽、高村光太郎に変更しました。

詩人が
初めての子に対面するのは
「山羊の歌」が刊行された年末に
ようやく帰省してからのことで
この頃、超多忙な日々を
強いられていたことがわかります。

このようなせわしない暮らしの中で
「秋岸清凉居士」と
「月下の告白 青山二郎に」は
同日に書かれたことに
驚きを覚えざるを得ません。

「死」についての論議が
青山二郎らとの間で
交わされたのでしょうか
または
ほかの理由が
詩人の内部にあったのでしょうか。

弟の死を悼む詩は
すでに
「ポロリポロリと死んでゆく」
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「梅雨と弟」
「蝉」
があり、

この年の4月28日に作られた
「骨」をはじめとする
死者との交流を歌った作品や
やがては
長男文也を失って歌う追悼詩の群れへ

そして多数の「在りし日」を歌う
大きな流れを
形成していく様相を見せはじめています。


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