秋岸清凉居士

消えていったのは、
あれはあやめの花じゃろか?
いいえいいえ、消えていったは、
あれはなんとかいう花の紫の莟(つぼ)みであったじゃろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていったは
あれはなんとかいう花の紫の莟みであったじゃろ

とある侘(わ)びしい踏切のほとり
草は生え、すすきは伸びて
その中に、
焼木杭(やけぼっくい)がありました

その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑(そそ)ぎました

木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しょっかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありましょうか?
それとも汚ないソフトかぶった
老ルンペンででもありましょうか

風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました

繁みの葉ッパの一枚々々
伺うような目付して、
こっそり私を瞶(みつ)めていました

月は半月(はんかけ) 鋭く光り
でも何時(いつ)もより
可なり低きにあるようでした

虫は草葉の下で鳴き、
草葉くぐって私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした

ほのぼのと、煙草吹かして懐(ふところ)で、
手を暖(あった)めてまるでもう
此処(ここ)が自分の家(うち)のよう
すっかりと落付きはらい路の上(へ)に
ヒラヒラと舞う小妖女(フェアリー)に
だまされもせず小妖女(ファアリー)を、
見て見ぬ振りでいましたが
やがてして、ガックリとばかり
口開(あ)いて背(うし)ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清凉居士といい――僕の弟、
月の夜とても闇夜じゃとても
今は此の世に亡い男

今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳(た)ってるは
月下の僕か弟か
おおかた僕には違いないけど
死んで行ったは、
――あれはあやめの花じゃろか
いいえいいえ消えて行ったは、
あれはなんとかいう花の紫の莟じゃろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていったは
あれはなんとかいう花の紫の莟か知れず
あれは果されなかった憧憬に窒息しおった弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も虫の音も焼木杭も月もレールも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合わされて悉皆(しっかい)くちゃくちゃになろうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らえる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜(りょう) 劃然(かくぜん)として
世紀も眠る此(こ)の夜(よ)さ一と夜
――虫が鳴くとははて面妖(めんよう)な
エジプト遺蹟(いせき)もかくまでならずと
首を捻(ひね)ってみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どっちにしたっておんなしことでい
さてあらたまって申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今じゃ秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。

(一九三四・一〇・二〇夜)


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ひとくちメモ

秋岸清凉居士は
1931年9月に亡くなった
弟の恰三の戒名です。

「月下の告白 青山二郎に」と
同じ日1934年10月20日の日付をもつ作品です。

「月下の告白」はおそらく前夜の青山としたなにかの議論の返事として書かれたものであろう。この頃小林秀雄に「お前が怠け者になるのもならないのも今が境ふだ」といわれたという記事が、安原宛の手紙にあるから(二月十日附)そんな話だったかもしれない。
――と、大岡昇平は、
中也の評伝の一つである「在りし日の歌」に記しました。
これに続けて、
中原の詩稿としては珍しく、固苦しい楷書で書かれている。同じ日に書いて、筐底にしまっておいたのは、次のような道化歌である。
――と書き、「秋岸清凉居士」を、
「改行なしの送り文(一部略)」で引用しています。
そして、続けて、次のような批評を加えています。
こういう道化た調子も中原の生得のものであった。「はた君が果たされぬ憧憬であるかも知れず」という句には、世の馬鹿者向けの邪悪な姿勢が現れている。
こんな読みができるのは
詩人の近くにいた友人であるからであって
素朴な読者には
到底、思い及ばない解釈です。
「魂の動乱時代」と
親友・安原喜弘が名づけた
危機の時代を脱出し、
結婚して、第一子が生誕し、
詩集「山羊の歌」を刊行し
詩壇からの評価もようやく定まってきたこの頃(1934年)に
1931年9月に死んだ
弟・恰三を悼む詩をはじめ
「在りし日」を歌う詩篇が
数多く制作されたということは
一つの謎です。


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