「中原中也が訳したランボー」のおわりに(5)

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、大岡昇平が記しているように
中原中也訳の「ランボオ詩集」は好評裡に迎えられ
売れ行きも好調でした。

戦時体制下であり
個人の読書体験、ランボー体験ということでもあるので
実態はなかなか見えにくいものでしたが
中原中也という詩人の全仕事が評価される中で
「中原中也が訳したランボー」は
相対的に客観的に評価されていきます。

「中原中也必携」(別冊国文学‘79夏季号、学燈社)に
「年表・中原中也への同時代評」(稲井牧子)がありますから、
ここから「ランボオ詩集」または「中原中也のランボオ」への言及を
これまでに紹介したものと一部重複しますが
ピックアップしておきます。

昭和12年(1937年)

9月、『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
本邦唯一の完訳韻文詩集として好評、12月には3刷される。

11月 小林秀雄「中原中也『ランボオ詩集』」(「文学界」、のち『小林秀雄全集2』所収)
ランボオの翻訳は非常に困難だ、ほとんど全部が初めて邦訳を見たもので、ずいぶん骨の折れた仕事であっただろうと思う、と訳詩集を紹介している。

11月 春山行夫「中原中也『ランボオ詩集』」(「新潮」)
詩人の手になったものとは思えず「コップのように美しいイメジ」など浮かびようもない、ランボオもひどいことになった、と中原の訳し方を批判している。

12月 「中原中也追悼特集」(「文学界」、のち復刻版「『文学界』中原中也追悼号」昭
51・4、冬至書房所収)

萩原朔太郎「中原中也君の印象」(のち『萩原朔太郎全集9』、『現代詩読本』所収)
個人的には浅いつきあいだった、よくは似ているがランボオが「透徹した知性人」であったのに対し、中原は「殉情な情緒人」であり、それが最も尊いエスプリだった、と言っている。

12月 「中原中也追悼特集」(「四季」、のち復刻版「『四季』追悼号」昭和43・1、冬至書房所収)

阪本越郎「中原中也を憶う」
中原の詩的風格は、詩人より小説家・音楽家に認められていたようだ、ランボオの自我の拡充にほとんど達したように思われる、また、彼のキリスト教は聖書を読み、一人で泣き、祈るものだった、と言っている。

12月「中原中也追悼号」(「手帖」)

西川満「頑是ない歌―詩人中原中也氏を悼む」
生前の彼に会ったことはないが、作品からわが身近くにあたたかな氏の魂を感じた、とランボオを通して知った中原を書いている。

野田誠三「中原中也氏の死」
出来上がった『ランボオ詩集』を中原は大変喜び、これは旬日ならずして手持品は全部売り切れ、追加注文や直接買いに来た人に応じきれず、たいへんな騒ぎだった、と言っている。

昭和13年(1938年)

4月「在りし日の歌」(創元社)刊行。

第2詩集「在りし日の歌」を
詩人は手にすることができませんでした。
そのことを思えば
「ランボオ詩集」を手に取ったときの詩人の喜びようが
目に見えるようです。

自選作品集として完結しながら
実際の本を見ないで逝った詩人への評価は
こうして「没後評価」という形になり
詩人自ら、この没後評価をも知らないことになります。

「山羊の歌」(昭和9年)の詩人として
次第に評価が高まる中で
「ランボオ詩集」を刊行し
第2詩集「在りし日の歌」を畳みかけるように出す段になって
詩人・中原中也は急逝したのですから、
「評価という地平」で、
「没後」は「生前」と連続するというパラドクスのようなことが起こりました。

「ランボオ詩集」は
「ランボオ詩集」として評価されるというよりも、
中原中也の全仕事の中で評価される形にならざるを得なかったのです。

戦後になって、
大岡昇平の「中原中也伝―揺籃」(昭和24年)が発表されますが
これと同じ年に「ランボオ詩集」が書肆「ユリイカ」から出版されているのは
「中原中也が訳したランボー」への評価が
戦時下から戦後へ、脈々と継承されていたことを示すものの一つです。


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