「中原中也が訳したランボー」のおわりに(6)

「ランボオ詩集」を実際に手にしたものの
「在りし日の歌」を手にすることはなかった不運な詩人――。

詩人の急逝を
だれも予想することが出来なかったのは当たり前でしたが
詩人の訃報の陰に
「ランボオ詩集」への評価は隠れる形になり
追悼記事の中に
詩人の全仕事への評価として相対化されることになったのです。

小林秀雄と春山行夫の「ランボオ詩集」への書評は
おそらく、詩人の死の前に編集者の手に渡っていて
編集も最終段階を過ぎていたものと推測されます。

「没後評価」が
こうして、詩人・中原中也の評価の大きな比重を占めることになります。
そのはじまりが、追悼文でした。

中原中也が亡くなった昭和12年10月22日以後、
昭和12年11月の「紀元」をはじめに
12月に、「文学界」「四季」「手帖」と「コギト」
13年に「文芸」と、
関係のあった雑誌・同人誌が
次々に追悼号を出し、追悼記事を載せました。

各誌に寄せられた追悼記事のうちわけは、
以下の通りです。

「紀元」(12年11月)は、隠岐和一、片山勝吉、山之口獏の追悼文、
「文学界」(12年12月)は、島木健作、阿部六郎、草野心平、菊岡久利、青山二郎、
萩原朔太郎、河上徹太郎、関口隆克の追悼文、小林秀雄、菊岡久利の追悼詩、
「四季」(12年12月)は、佐藤正彰、関口隆克、内海誓一郎、阪本越郎、丸山薫の追悼文、
「手帖」(12年12月)は、青山二郎、小林秀雄、佐藤正彰、西川満、平井弥太郎、野田誠三の追悼文

「歴程」は、やや遅れて14年4月に
菊岡久利、草野心平、高村光太郎、藤原定、岡崎清一郎の追悼文を特集しました。

このほかに、「コギト」は、阪本越郎の追悼詩、
「文芸」は、高橋新吉の追悼文、
13年の「文芸」は、横光利一の「覚書」を掲載しました。

「在りし日の歌」は、
昭和13年4月の発行になりますから、
これに関する発言は
追悼をかねたものとなり
すべてが没後評価ということになります。

評者は、第2詩集「在りし日の歌」への批評や感想を
追悼文の中で表現せざるを得ない状態でした。
批評や感想や鑑賞が
詩人の死を悼む記述と切り離しては書けなかった場合が多かったのです。

昭和42年(1967年)は、中原中也没後30年の節目ですが
角川書店の「中原中也全集」がこの年に刊行開始されました。
この年までの「没後評価」の歴史が
「中原中也年譜」(吉田凞生編)の一部に概観されていますから
それを見ておくことにしましょう。

昭和13年(1938年) 没後1年

4月、「在りし日の歌」が創元社より刊行された。
7月、「山口県詩選」(白銀白新書店)に「除夜の鐘」など4篇が収録された。

昭和14年(1939年) 没後2年
「現代詩集1」(河出書房)に「サーカス」など29篇が収録された。

昭和16年(1941年) 没後4年
2月、「歴程詩集」(山雅房)に「閑寂」など7篇が収録された。

昭和22年(1947年) 没後10年
8月、「中原中也詩集」が大岡昇平による年譜、解説を付して創元社より刊行された。

昭和24年(1949年) 没後12年
2月、「ランボオ詩集」が大岡昇平の解説を付して書肆ユリイカより刊行された。

昭和26年(1951年) 没後14年
4~6月、「中原中也全集」全3巻が創元社より刊行された。

昭和35年(1960年) 没後23年
3月、「中原中也全集」全1巻が角川書店より刊行された。

昭和40年(1965年) 没後28年
6月、湯田温泉の井上公園に詩碑が建てられた。小林秀雄の筆になる「帰郷」の一節、
大岡昇平による碑文が刻まれている。

昭和42年(1967年) 没後30年
10月、「中原中也全集」全5巻、別巻1(角川書店)の刊行が始まった。同全集の本巻
は昭和43年に完結、別巻は昭和46年に刊行された。

ランボオ詩集
後記

私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

在りし日の歌
後記

茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
さらば東京! おゝわが青春!
〔一九三七、九、二三〕

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

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