「中原中也が訳したランボー」のおわりに(4)

中原中也訳「ランボオ詩集」への
肯定的評価となると、

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、やはりこれも大岡昇平が記すように
ランボーの詩が実際に多くの人に読まれた、という事実の中に表われますが
書評としては小林秀雄が「文学界」昭和12年11月号に
「中原中也訳『ランボオ詩集』」のタイトルで寄せたのがあるだけです。

小林秀雄の書評は

中原君の訳は散文詩を除いた他の詩殆ど全部であり、又その殆ど全部が初めて邦
訳を見たものである。づい分骨の折れた仕事であっただろうと思う

――などという内容でした。

「新潮」11月号に春山行夫が書いた書評もこれと全く同じタイトルで、
「ランボオ詩集」の書評は
昭和12年末に現われたこの2点だけでした。
以後も書評として真っ向から論じられることはなく
時評や座談会などの中で話題になるほどのものでしたが
詩集そのものの売れ行きは好調だったのです。

昭和11年、2・26事件、
昭和12年、満州事変、
昭和14年、国家総動員法成立、
昭和15年、大政翼賛会発足と戦争の足音は高くなっていき
昭和16年、ついに太平洋戦争が始められました。

「ランボオ詩集」は、その後どのように読まれたのか――。
大変、興味深いことですが
いま、それを記すほどの材料がありません。

中原中也は、
「ランボオ詩集」を発行して直ぐに
かねて準備していた「在りし日の歌」の編集を終え
清書原稿を小林秀雄に預けます。
これが、9月26日(推定)のことですが
10月5日に発病し、10月22日に亡くなってしまいます。

小林秀雄に預けられた「在りし日の歌」は
詩人没後1年の昭和13年(1938年)4月に出版されます。

「ランボオ詩集」の「後記」に記された「8月21日」、
「在りし日の歌」の「後記」に記された「9月23日」。

二つの詩集の「後記」は
1か月も経たずして書かれました。
そして、この1か月後に詩人は死亡しました。

この機会に
二つの「後記」を同時に読んでおきましょう。

 *

 ランボオ詩集
後記

私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
さらば東京! おゝわが青春!
〔一九三七、九、二三〕


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