龍 巻

龍巻の頸(くび)は、殊にはその後頭(こうとう)は
老廃血(ふるち)でいっぱい

曇った日の空に
龍巻はさも威勢よく起上るけれど

実は淋しさ極まってのことであり
やがても倒れなければならない

浪に返った龍巻は
ただただ漾(ただよ)う泡となり

呼んでも呼んでも、
もはや再起の心はない

(一九三五・九・一六)


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ひとくちメモ

「竜巻」は
1935年9月16日の作品。

1935年6月7日に
中原中也は
花園アパートからほど近くの
牛込区市ヶ谷谷町62の住所へ転居します。
親戚である中原岩三郎の持ち家でした。

第1詩集「山羊の歌」の出版からおよそ10か月
詩人の名は徐々に広がり
詩誌や雑誌などへの出稿が頻繁になります。

このあたりのことを
大岡昇平は

中原を古くから知っている友人達は、そこに常に中原の日常的声調を感じた。しかし萩原朔太郎、室生犀星など、同時代の詩人達は、みな中原の詩に高い技巧性を認めていた。室生は前に引いた日記に『山羊の歌』の諸篇に「旨さがぴつたり逸れなくなつた」と書き、萩原朔太郎は、「倦怠」のような日常的な告白詩にも技巧性を認めている(「四季」昭和十年八月号)

――と書いています。(角川旧全集「日記・書簡」解説)

このころ
盛んに「四季」に寄稿し
1935年末には
同人となることを承諾しました。

「四季」との関わりは
季刊「四季」昭和8年夏号(昭和8年7月発行)に
「少年時」
「帰郷」
「逝く夏の歌」を発表したのを初めとして

「四季」創刊号(昭和9年10月発行)に
「みちこ」を、
同10年1月号からは
ほぼ毎号、作品を発表しています。

詩人としての名声が高まり
詩壇文壇への発言も多くなるにつれて
毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばする
文学世界との交流も深まって
酒席への参加も頻繁になります。

「竜巻」は
詩作そのものとは無縁の
「外野席」にある詩人が
論評を戦わす自身
もしくは論評の相手を
歌ったものと受け止めることが可能な
「むなしさ」が漂う詩です。

だれそれと特定はできませんが
詩人は行く先々で
文学論や詩論を戦わせるのですが
その最中、
激して、我を忘れるほどであっても
ひとたび詩に向えば
怜悧なナイフでもって
言葉の岩盤から
詩の言葉をこそぎ落す
達人になるのです。


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