山上のひととき

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

いとしい者はただ無邪気に笑っており
世間はただ遥(はる)か彼方(かなた)で荒くれていた

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

私は手で風を追いのけるかに
わずかに微笑(ほほえ)み返すのだった

いとしい者はただ無邪気に笑っており
世間はただ遥か彼方で荒くれていた

(一九三五・九・一九)


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ひとくちメモ



「山上のひととき」を作った同じ日に
「詩人は辛い」というタイトルの詩が作られ
こちらは
「四季」(昭和10年11月号)に発表されています。

「詩人は辛い」はタイトルの通り
詩作そのものを苦労を通じて
詩人論を述べている詩ですが
「山上のひととき」は
わが子、文也をモチーフにしながら
詩作の周辺について
歌っています。

詩作の周辺というのは
詩作品に対する評価、批判を含めた
世間というもののことですが
その世間について
第2連および最終連で

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

――と、シニカルな視線を送るのです。

「坊や」
「春と赤ン坊」
「雲雀」
「大島行葵丸にて」
「この小児」
「吾子よ吾子」
……と
赤ん坊を歌うことの多かったこの頃
この「山上のひととき」も
その流れの作品ですが

赤ん坊一般や
長男文也を歌った詩でありながら
赤ん坊の可愛さや純真さばかりを
歌ったわけではないことを
この詩は明らかにしています。

「詩人は辛い」では

こんな御都合な世の中に歌なぞ歌わない

――と歌い
この詩では

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

――と歌うのは、
御都合な世の中も
遥か彼方で荒くれている世間も
詩人には
同じことを示しています。
この二つのフレーズは
同じ実態の異なった表現に過ぎないことを
示しているのです。

山上にあっては
風は
いとけなきわが子に吹き渡りますし
詩人にも容赦なく吹き付けますが
いとけなきわが子は
ただ無邪気に笑っていますし
詩人には
遥か彼方に見える世間は
荒涼として見えるばかりです。

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