桑名の駅

桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた
夜更の駅には駅長が
綺麗(きれい)な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只(ただ)独り
ランプを持って立っていた

桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ泣いていた
焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
此処(ここ)のことかと思ったから
駅長さんに訊(たず)ねたら
そうだと云って笑ってた

桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた
大雨の、霽(あが)ったばかりのその夜(よる)は
風もなければ暗かった

(一九三五・八・一二)
「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪
間の不通のため、臨時関西線を運転す」


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ひとくちメモ



1936年(昭和11年)11月10日、
長男文也が亡くなり
約1か月後に
中原中也は日記の中に
「文也の一生」を書きます。

その中に
1935年8月の
上京の道中で遭遇した水害について

八月十日母と女中と呉郎に送られ上京。湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。三等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。
<編者注>考証の結果、八月十日は、八月十一日を詩人が誤記したものとされています

――と、記します。

このときのことを歌ったのが
「桑名の駅」で、
1935年8月12日に制作されました。

詩人らは
6月末から8月11日まで
親子3人で帰省し
親子3人で再び上京したのです。
この上京時に
関西地方は集中豪雨に見舞われました。

詩人ら一行は
大阪に着いたところで
東海道本線を利用できず
関西本線で東京に向ったのですが
奈良を経由し
名古屋に向う手前の桑名で
列車は立ち往生
そこで発車を待つ時間に
詩人はホームの駅員か駅長かに
話しかけました。

ここが
あの、焼きハマグリの桑名ですか

駅員だか駅長だかが
ニヤっとか
ニタっとか
隠微(いんび)なそれではなく
快活に笑って
そうです、
その手はクワナの
焼きハマグリ
一度、食べてごらんなさいませ
などといって応えるので
二人は
顔を見合わせて
笑い転げたのでした。

ハマグリは
焼いて食べればうまいこと!うまいこと!
貝の中の貝です。

もちろんその貝には
「美味しい女性」の意味も
掛けられていたことは
詩人はとうに知っていたことでした。

会話がひとしきりした後
あたりは暗闇で
風も雨も止み
蛙の声だけが
しぐれるように鳴いていました。


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