今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。

ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音(じおん)
銹(さ)びつく鑵(かん)の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫(す)っている。

それのめぐりを七人の天女(てんにょ)は
趾頭舞踊(しとうぶよう)しつづけているが、
汚辱(おじょく)に浸る月の心に

なんの慰愛(いあい)もあたえはしない。
遠(おち)にちらばる星と星よ!
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる


<スポンサーリンク>

ひとくちメモ

「初期詩篇」の2番目に置かれた「月」は
ダダの詩ではなく
ダダを脱皮しようとして作られた詩です。

中原中也の詩作品としては初期のもの。
ダダっぽさを残しながら
ダダではなく
象徴詩に近づきつつも
象徴詩を覚えたばかりの
若々しさに溢れた作品といえるでしょう。

難解ながら詩句を何度も追っているうちに
見えてくるものがあります。
はじめに詩の形が見えてきて
次にはストーリーみたいなものが
浮かび上がってきて
やっぱり中原中也の詩になっているのがわかります。

4─4─3─3の14行詩
ソネットの形。
各連に「月」の1字が見えます。
その月を見比べると……。

1連は、月はいよいよ悲しく
2連は、物憂くタバコを吸っている
3連は、汚辱に浸る
4連は、首切り役人を待っている月

悲愁の愁の「かなしみ」の中にあり
懶惰の懶の「ものうさ」の中にあり
汚辱に心はまみれ
天女たちのトー・ダンスにも
慰愛されることのない月は
詩人自らのことを指していることが
想像できるでしょうか。

2連の4行は
遠い戦争の記憶がよみがえったのか
いまいましい過去や
戦地のイメージか
さびついた缶から取り出したタバコを
物憂くふかしている月……
倦怠がここにもはじまっています。

4連にきて
慰まることのない月=詩人は
星々に向かって
これら悲愁や汚辱や倦怠を
いっそのこと
切り落としてくれるように
首切り役人の登場を呼びかけるのです。

これだけでは
なにが歌われているのか
ぼんやりしていて
ベールの外側から
劇かショーかを見ているような感覚になります。
その感覚は
的を外れているものではなく
この詩が
ガリラヤ王ヘロデと
その王女(義理)サロメと
預言者ヨハネらが織りなす
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」を
下敷きにしているからなのです。

月、義父、砂漠、運河、七人の天女、趾頭舞踊、劊手 ……
といった語句が現れるのは
こういう理由があったのです。
これらの登場人物や舞台背景が
「サロメ」のシーンであることを知れば
一気に「月」の内部に溶け入っていくことになるのですが
なぜ「サロメ」なのかという謎を
「月」の読者は抱くことになり
ここではじめて
中原中也の詩「月」を味わう
糸口をつかんでいることになります。

▼サロメ:ガリラヤ王ヘロデに捕らえられた預言者ヨハネを愛した王女サロメが、義父ヘロデを月の下で「七つのベールの舞」を踊ってたぶらかし、ヨハネの生首を手に入れ、その生首にキスするというあらすじの物語。新約聖書のわずかな記述から拡大解釈された。ヨーロッパで油絵やオペラの題材に好んで取り上げられた歴史があるが、1891年にフランス語で出版されたオスカー・ワイルドの戯曲は、オーブリー・ビアズリーの挿画の斬新さも手伝って、センセーションを巻き起こした。中原中也は、1927年(昭和2年)の日記の読書メモに「SaloméOscarWild」と記しているが、どの翻訳を読んだのか分かっていない。

▼劊手:首切り役人。


<スポンサーリンク>