春の夜

燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに
一枝(ひとえだ)の花、桃色の花。

月光うけて失神し
庭の土面(つちも)は附黒子(つけぼくろ)。

ああこともなしこともなし
樹々(きぎ)よはにかみ立ちまわれ。

このすずろなる物の音(ね)に
希望はあらず、さてはまた、懺悔(ざんげ)もあらず。

山虔(やまつつま)しき木工(こだくみ)のみ、
夢の裡(うち)なる隊商(たいしょう)のその足竝(あしなみ)もほのみゆれ。

窓の中にはさわやかの、おぼろかの
砂の色せる絹衣(きぬごろも)。

かびろき胸のピアノ鳴り
祖先はあらず、親も消(け)ぬ。

埋(うず)みし犬の何処(いずく)にか、
蕃紅花色(さふらんいろ)に湧(わ)きいずる
春の夜や。


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ひとくちメモ

中原中也が県立山口中学(旧制)を落第し
京都の立命館中学に転校したのは
1923年(大正12年)16歳の誕生日の少し前のことです。

生地を離れ
自活をはじめた中原中也に開かれる
新世界。
その一つがダダでした。

丸太町の古書店で偶然見つけた
「ダダイスト新吉の詩」に触発され
「ダダさん」とあだ名で呼ばれる時期もあった詩人でした。
詩人富永太郎を知ったのも
駆け出しの女優長谷川泰子を知ったのも
京都でしたが、
ほぼ2年間の滞在でした。

泰子とともに上京したのは
1925年(大正14年)18歳の誕生日の前のことです。
詩で身を立てる決意を固めるのですが
東京での詩作が
ダダイズムをきっぱり断ち切ったわけではありません。

それどころか
ダダイズム的詩作法は
終生、中原中也の詩に影を落とし
独特の強度を与えていくことになります。

新しい詩境とされる
「朝の歌」までに作られた「初期詩篇」4篇は
ダダおよび脱ダダの詩として
じっくりと読んでおきたい詩ですが

西欧象徴詩をはじめ
日本の文語詩や雅語、漢語・漢文調など
詩法への多様な摂取を試みていた
この頃の詩の一つである「春の夜」は、
全行に散りばめられた暗喩が
難解を極めます。

いぶし銀のような色の窓枠の中に
一本の桃色の花が見える、
あれは桜か、桃の花か

月の光を浴びて気を失ったように、
庭の地面はほくろ状の模様になっている

ああなんとも平穏なことだ
木々よ恥じらいを知り
立ち回れよ
今涼しげな音楽が聞こえているが
希望はなく、
かといって
するほどでもない

敬虔な木工だけが
夢の中を行くキャラバンの足並みを
かすかに見るであろう

窓の中には
さわやかでおぼろげで
砂の色をした絹衣が揺れ動いている

大きなピアノが鳴り響いているけれど
祖先はないし、親も消えてなくなった

昔埋葬した犬はどこかと、
振り返っていると、
遠い日がサフラン色によみがえってきたよ
ああ今は、春の夜なんだなあ

春の夜の
優艶で妖艶な情景が歌われていて
幻想的ですし、夢のようです。

場所は、
中国唐代の宮廷?
フランスの宮殿?
アラビアの王城?
と、とんでもない想像が広がりそうになります。
 
第4連の、
「希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず」
の、否定形で述べられた主体(主格)が
詩人でありましょう。

第7連の、
「祖先はあらず、親も消ぬ」
には、詩人以外の
もう一人の主人公が現れますが
両者の関係がどのようなものであるのか不明です。

どこそこの
だれそれが
何をどうした
という物語の主述が錯綜していて、
主格を探すのに苦労しますし、
関係も曖昧模糊としています。

謎解きの姿勢で詩を読むのも一つの方法ですが
やれこの行はベルレーヌ、
やれこの行はブラウニングと
糸口が探られていますが
「学問」し過ぎては「詩」を見失いますから
深追いはほどほどに。

1行でも理解できれば
そこをきっかけにして
イメージを膨らまし、
ほかの行を読んでいると
また新しい読みが生れたりして、
少しづつ溶けていくこともあります。

詩の謎は、
謎のままにしておいたほうがよい
という場合もあります。


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