秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、
サイレンの棲む海に溺れる。 

夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。

今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、
私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

 (水色のプラットホームと
  躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは
  いやだ いやだ!)

ぽけっとに手を突込んで
路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて
今日の日の魂に合う
布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

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ひとくちメモ

3─4─4─3─4と
計18行の最終連の4行が
何かにつけて話題になる
名高い作品です。

横浜に遊んだときの歌と伝えられているこの作品、
中原中也の詩作法の一端を示していて
詩集「山羊の歌」の中でも
印象に残るものの一つでしょうか。

散歩や遊興や旅行や……
詩人が動いているところには、
必ず、
詩を作ろうという意志があり、
詩の切れ端を捕まえようとする詩人があるのだな、と

誰もが、
この詩に触れて
詩人が、
まずは、詩の全体というより
詩の一部、
布の切れ屑が見つかれば
詩は生まれてくるもの、という
詩作法になじんでいることを知ります。

すべての詩を
このように作ったとは言えないのでしょうが
詩句の1行でも浮かんだら
それを元にして
1篇の詩に作りあげていく詩人の姿が
目に浮かぶようで、
親しみが湧いてきます。

ポケットに手を突っ込んで
ぼくは歩いた
夜の街を

ランボーがパリの街を歩いたように
中原中也は東京の街を歩き
横浜の路地を抜け
波止場に出ます。

今日の僕の魂に合う
詩の断片を探しにいってこよう

歩く詩人が
歩きながら
あるいは歩いた果てに
掴み取ろうとしているものこそ
詩そのものでした。

サイレンの歌は
ぼくを誘惑しそうになるけれど
負けてはいられないのさ

ぼくは探しにきたんだ
詩の断片でもいいから
見つかるまで
こうして
路地を抜け
波止場にやってきたんだ
中間の第2連から第4連に
ダダのしっぽが残る
ダダそのものではない
シンボリックな表現が現れますが

秋が訪れた街には
夏の夜祭の露店での会話や
大工さんたちの気風は見られません。

すべてのものが
古代の歴史と
それよりずっと古い
花崗岩とかが作られた時代の
地平の目の色をしています。

イギリス領事館旗のユニオンジャックが靡く街を
私は錫と天鼓を頼りに歩いていきました。
軟体動物のしゃがれ声みたいなおばさんの制止もきかずに
公園の入口で乳児が砂を口に入れています。

水色のペンキで塗られたプラットホームとか
陽気な少女とか
嘲笑的なヤンキイとか
バタ臭くて
いやだいやだ!

これらはみんな
ここは港町で繰り返される
平穏な秋の一日の情景の象徴化に過ぎないので
足踏みすることはありません。

冒頭連と最終連に
詩人の心根が露出する構造の詩になっています。


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